昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

飽きの現象学 1.1 「飽き」の言語的分析――飽き、慣れ、疲れ

『飽きの現象学
第一章 飽きとは何か――飽きの分析

1.1 「飽き」の言語的分析――飽き、慣れ、疲れ

●まずは「飽き」という言葉の使われ方に注目してみよう。言葉の使われ方に注目するのは哲学的にはオーソドックスなやり方だけど、いくつかの基本的特徴を発見させてくれる。(そして何より、いきなり奇妙な哲学的図式を持ち出さずに議論が進められる*1。)
●「飽き」の「飽」という字が「飽和」という熟語に用いられるように、「飽き」は何かに対してもう許容量がいっぱいであるというニュアンスを含むこともある。
●だが飽きは満足とは違う。「この作品にはとても満足しています。」「この作品にはとても飽きています。」この両者はかなり違うものである。ここでは「飽き」にはやはりネガティヴさが付きまとう。
●この飽和という概念は、〈量の増大〉による概念である。このことが示しているように、また、「飽きつつある」とか「ちょっと飽きた」と言われるように、飽きは有か無かというデジタル的なものではない。もっとファジーでアナログな現象である。


●英語だとtiredの一語が「飽きる(of)」と「疲れる(from)」の両方を意味する。boreやboredomは「うんざり」というニュアンスだろうか。どちらにしてもネガティヴなイメージが強い。
●フランス語だと「飽きる」はse lasserもしくはse fatiguerと言われる。ここでも「疲れ」「へとへと」というニュアンスが強い。
●「生活に飽きる」と「生活にうんざりする」は印象としては近いものがある。欧米系の言語の使用法を見るかぎり、「疲れ」とは飽きの重要なファクターであるようにも思われる。


●だが、飽きると疲れはそう簡単なつながりを持っているわけではない。確かに、実際「楽しいけど疲れたから、もう限界!」という場合はよくある。だが、疲れなければ飽きないのか?。疲れない飽きはないのか?例えば、寝すぎは?*2


●また、「この本にはもう飽きた」と言うとき、それは普通、〈この本を読むのに疲れた〉ということではなく、「この本にもう刺激・面白みを感じなくなった」ということを意味する。この〈新奇性の欠如〉(これについては次節で検討)については、心理学や神経生理学などでは刺激に対する〈慣れ〉と言うことがいわれる。
●だが「慣れる」と「飽きる」とは、ニュアンスはかなり異なっている。「この生活にもだんだん慣れてきました」は肯定的に用いられるのに対し、「この生活にもだんだん飽きてきました」はかなり好ましくない状態を指す。
●ネガティブさの度合いで並べてみると、
 「慣れる」←→「飽きる」←→「うんざりする・つかれる」
 ということになりそうだ。この順序で見ると、飽きるとは、〈慣れる〉と〈うんざりする〉の間の奇妙な位置にありつつ、若干否定的なニュアンスを背負っている。現に「厭きる」の「厭」は上から押さえつけられた重圧というニュアンスを持つものである。


●だが〈飽き〉とは常に否定的なものなのか?先に〈疲れない飽き〉という考え方に触れた。
●疲れない飽きを良く示しているのは、「死んだメタファー」である。「椅子の足」、「本の背中」。メタファーは通常、新奇性によって面白く、想像力豊かに受け取られるが、飽きられ日常化することで、普通の言葉として用いられるようになる。
●想像力が働かない死んだメタファーは一種の飽きであるが、疲れではない。このことを考えてみると、飽きと疲れと切り離して考えてみてもよさそうな気もしてくる。


●言葉の使用を見ることで、飽きのいくつかの特徴と共に、問題も明らかになってきた。〈慣れ〉〈疲れ〉と〈飽き〉はどう違うのか?飽きにネガティブさは必須のものなのか?この問題は、おそらく人間の新奇さを求める欲求と関係している。次の節ではもうすこし理論的に考えてみよう。

*1:和辻哲郎とか良くこの手法を用いる印象がある。西村『遊びの現象学』もそう。

*2:もうちょい何か良い例ないかな?