序
本論の目的は、飽きという側面から芸術体験を考察することにある。
飽きることについては、
心理学(?)においては「馴化」、
脳科学においては、「疲労硬貨」(脳を構成するニューロンが、同じ刺激に対して飽きるという現象)、
経済学においては、「限界効用逓減の法則」
などと、様々な形で取り入れられているが、美学の領域においては、それほど主題的に論じられているわけではない。これはいったいどうしたことだろうか?
我々は現に、ある音楽に聴きあき、ある本を読み飽きる。いかに優れた芸術作品であろうとも、何年もそれだけを鑑賞するということはない。優れた作品も、ある程度繰り返しの鑑賞によって、次第に色あせ、刺激を与えなくなるというのが一般的だろう。飽きという芸術体験につきまとう現象はこんなにもありふれているのに、美学(感性学)はその現象についてはあまり省みず、芸術体験を神聖なもの、崇高なもの、なにか特別なものとばかり考えてきたのではないか?我々はごく当たり前の経験を取り逃していないか?
たとえばWoltonは、作品受容は何度でも可能であると言う*1。
確かに、子供は何度も同じ絵本を読んでくれとせがむ。お気に入りの一冊というやつだ。小説や映画などに顕著に見られるように、結末を知っていてもそれはそれで楽しめるというのは物語作品ひとつの特徴でもある。しかし、素朴な直観として、「いやいや、飽きるだろ!」という気持ちもあるだろう。Waltonが提出した〈繰り返し楽しめる〉という特徴が「なるほど、確かに」という印象をあたえるのも、そこで「飽きる」ということが通常のことすぎて見過ごされているからだろう。我々は〈作品に飽きる〉ということが〈作品を鑑賞する〉という行為にどのように関係しているのかを、考察しないままみのがしていたのではないか?
だが、もしかしたら美の定義次第では、そこから飽きを排除することも可能かもしれない。つまり「美しいものとは決して飽きることがないものであり、飽きられるものは美ではないのだ」というかたちで「美」を定義すれば、飽きについての考察は、美学や芸術学にとっては重要ではなくなるかもしれない。しかし、そのような「完全な美」を我々は現実に体験することが出来るのだろうか?あまりに実感にそぐわない理想概念についての形而上学的すぎる議論によって、我々は実感にそぐわないおかしな理論を作り上げてしまっているのではないか?
本論は以上のような、考えてみればごく当たり前の、非常に素朴な関心から出発している。議論の方針としては、この素朴な直観を生かしつつ、既存の哲学的概念にあまり頼らずに進めて行きたい。
(とはいえ、既に私も様々な哲学的議論に多少頭脳が侵食されてきているので、ついつい凝り固まった考え方をしてしまっていると思う。読者は、自身の日常体験を基点にしつつ、ごくごく素朴な観点から様々な突っ込みを入れて欲しい。)
ここで、本論が共感する姿勢として、西村清和の『遊びの現象学』の一節を引用しておこう。
「自分の経験に照らして見るかぎりでは、このごく日常的に見かける単純な行動や現象には、とくべつにこれといって謎めいたところは、まったくない。だが、いつもそうなのだが、この事実の単純さが、ひとをまどわせる。というのも単純さには、何かしら説明を拒絶するところがあるからである。ことがらの単純さそのものをねらい撃つような問いの立てかたというものがないだろうか。」(p.1)
遊びの現象学
だが、ここでひとつ注意を喚起しておきたいが、本論の主たる狙いは〈飽きそのものの解明〉にあるわけではない。というよりむしろ、本論の目的は、〈飽きを補助線に既存の美学理論を見直すことで、美学の領域に新たな視点をもたらす〉という点にある。我々は飽きという側面から各美学理論を再解釈・再批判することで、その美学理論の射程・弱点を見極めることが出来るようになるだろう。
したがって、本来ならば、これは共同研究的にやられるべき探求である。(誰か科研費とってー!)
カント美学において、ヘーゲル芸術論において、ハイデガーの存在論において、飽きはどのように位置づけられるか?(まぁサルトルはおいといて・・・つーか自分でやります。)またベルクソンのエラン・ヴィタール概念、ドゥルーズの持続の概念と飽きはどのように結びつくか(「スキゾ」概念は近いこと言ってるかも。詳しい人教えてください。)?レヴィナスでは?M・アンリの内在的現象学では?マリオンの「飽和した現象」と飽きとはどう違うか?
それらを専門の各研究者が考察することで、ひとつの飽きの図式が見えてくると共に、これまでの美学理論が飽きという側面を軽視してきたことが明らかになるだろう。
美術史、心理学、医学、などなどの専門化にも御教授を仰ぎたい。
とはいえ――私に出来ることは肘掛け椅子の上での思考でしかないのだから――まずは哲学的に飽きとは何かを確認することからはじめなければならないだろう。
よって、まず第一章では飽きが何かを分析する。
第二章ではその分析を生かしつつ、既存の美学理論についていくつか考えるところを述べたい。
第三章では、余談としていくつか思うところを述べるつもりである。
では、飽きについての飽きない議論ができますように。
『飽きの現象学』
序
第一章 飽きとは何か――飽きの定義・分析
1.1 飽きの言語的分析――飽き、慣れ、疲れ
1.2 飽きは新奇情報の欠如――ロボット、飽きと価値
1.3 飽きと対象――飽きは志向的行為の終わり 追記
1.4 意志の欠如――飽きを意志的に行うことは出来ない
1.5 時間的観点から――飽きへの落ち込みを捉えることは出来ない第二章 飽きの美学
2.1 感性‐飽きの二元論 the Aesthetic-Boredom dualism
2.2 感性‐飽きの一体説 the Aesthetic-Boredom unit theory
2.3 飽きの後の反省
2.4 飽きの効用?
2.5 飽きが作品の存在論に与える影響第三章 飽きの考察から見えてくるもの
3.1 飽きは美術史における様式の変化を説明できる。
3.2 飽きは「芸術家は自分を深く見つめなさい」という言説を説明する。
3.3 現代社会における飽き
3.4 飽きないもの――食事、排泄等の低級欲、言語、依存。
*1:彼の議論の枠組みからすれば「make-believe gameは同じ作品propから何度も起こりうる」と言った方が良いかもしれない。(Mimesis as make-believe, p.259-)