1.4意志の欠如――意志的に飽きることは出来ない
●飽きるのは意志的な振る舞いではない。我々は飽きようと思って飽きるのではない。
●意志の欠如に関しては、美的体験にも言える。作品体験の没頭は意志的に行われるものではない。美的体験において、飽きるとは作品による動機づけがうまく機能せず、意志以前の自発性が起こらない状態であるが、我々は意志的にその状態に陥ることは出来ない。
●作品を最初から見ない場合は、飽きとは異なる。作品に没頭していたが、いつの間にか囚われ状態を脱し、志向が無くなっていたという状態が飽きである。
●もちろんその後、その作品に「飽きている」という性質を身につけてしまった場合は、その作品に囚われること自体がなくなる。その場合、「没頭→飽き」ではなく、最初から心が動かない。(ただしその場合でも、一般的な評決的verdictレベルで、「この作品は感動的なものだ」と言うことはできる。批評家はある作品を既に鑑賞しまくっていて作品に見飽きていても、「これはすばらしい作品だ」と言う。)
●しかし、飽きは想像的抵抗imaginative resistance(概念的に理解しがたい場面、価値的に尊重しない場面について想像力が働きにくいという現象)とは違う気もする*1。確かに飽きは作品から想像への動機づけがうまくいかない場合だが、そこに理解や道徳的価値はあまり関係していないと思う。むしろ刺激への慣れへの問題。
●なぜなら、我々は道徳的に価値あることでも、飽きるから*2。そしてどんなにすばらしい芸術にも飽きる。(どんなに綺麗な人、ハンサムな人にも飽きる?*3)
●これは、〈芸術が与える感動が我々の価値観と大きく関係していること〉を傍証している。我々は非意志的に、飽きていない作品に感動し、飽きた作品には感動しない。文化の発展とは飽きを超越していく過程である。〈ある社会が何に飽きているのか〉は、その社会の文化の指標となるのである*4。
●ただし、ファッション界などにおいては、企業戦略が関わることで、あるファッションが強制的に古臭いものとなることはある。その場合、〈ある服・靴などを、知らず知らず、飽きていないのに嫌いになっている〉ことがあるかもしれない。「かっこいいけどダサい」という言葉はまさにその状態。