昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

飽きの現象学 1.5 時間的観点から――飽きへの落ち込みを捉えることは出来ない


飽きの現象学
1.5 時間的観点から――飽きへの落ち込みを捉えることは出来ない


●我々は飽きを様々な時間軸で考えることが出来る。「あの人の話にはもう飽きた」とは、毎日延々と聞かされて飽きている「状態」を指すときもあれば、長時間聞き続けたことによって飽きに落ち込むという「動作」を指すこともできる。先にも述べたが、「飽きている」とは志向性をうしなってもはや志向性が無い状態であり、志向性を持たなくなるのが「飽きる」という動作である。これは別の(生理学的)観点から見れば、「飽きている」はまさに情報処理のロボット化が完遂している場合であり、「飽きた」は単なる疲れによる情報処理の拒否であると言ってもよかろう。


●後者の場合をもう少し考えてみよう。その場合、時間論的観点からすれば、飽きの特権的瞬間をどのように把握するかという点が重要になる。いったい飽きたのはいつなのか?
●この問いに答えようとすると、飽きに気づくのは事後的であることに気づく。我々は「あぁ俺飽きてるなー」と、<飽きる>という行為をしてしまって、既に<飽きている>状態にいる自分を発見するのだ。我々は「飽きた!!」と叫ぶ瞬間に飽きるのではなく、その瞬間に我々は既に飽きているのである。飽きる瞬間を反省によって特定することは不可能なのだ。(脳科学的実験によって、もしくは眼球運動などの生理的反応を観察することによっては、飽きる瞬間の特定はおそらく可能である。)
●飽きている自分に気づくのは既に飽きているときであり、時間的にはその発見より飽きていることが先行している。我々は意識的に飽きることはできないので、飽きに落ち込む瞬間を把握することが出来ない

行動開始    飽きる(気づかれない)  発見(志向の復活)
 ↓        ↓            ↓
→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→時間t
          |←  飽きている  →|


●事後的に気づかれる現象としては、夢もそうである。通常、我々は夢にあとからで気づく。夢から覚めた人間は「あぁ夢だったのか・・・」と寂しそうに(もしくは安心して)言う。夢だと気づきながら夢見ることは稀だ*1
●ただし夢と飽きは全く違う。夢が〈非措定的自己意識が失われているが、(幻惑状態として)志向性は保たれている状態〉であるのに対して、飽きは〈志向性が失われているが、非措定的自己意識が曖昧になっている状態〉である。


●このように考えると、飽きる瞬間の逆は我に返る瞬間と考えることも出来るかもしれない。それは先の志向性の観点から言えば、志向性が復活する瞬間でもある。
●志向性が無い状態、また志向性が定まっていない状態を止めること(つまり志向性が働き出すこと)は飽きとは言わない。(これは先に挙げた定義「〈能動的行為がいつの間にか能動性を失うこと〉」から見ても正しい。)気絶から我に返る瞬間を飽きるとは言わないし、夢に飽きて起きることもない。

*1:というか俺はそういう体験をしたことが無い。なんかする人はするらしいけど。やってみたいなー