昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

飽きの現象学 1.3 飽きと対象――飽きは志向的行為の終わり

1.3 飽きと対象――飽きは志向的行為の終わり。
●「〜飽きる」と「〜飽きる」。我々は「飽き」について主にこの二つの言葉遣いをする。この「に」「は」の助詞の違いに注目して議論を進めたいが、ここでも参考になるのは西村の『遊びの現象学』である。
彼は「遊ぶ」について用いられる助詞「で」「に」「と」に注目しつつ、次のように言う。

〔「鍵束で遊ぶ」の〕この「で」はもちろん、「でもって」の手段の「で」ではなく、掌と鍵とのふれあいに生起した、いずれが主・客ともわかちがたい力動的な遊びの様態が現象する場、われわれのことばでいえば、「遊隙」を呈示する助詞である。それゆえ、「鍵束と遊ぶ」、あるいは「鍵束で遊ぶ」とは、わたしの掌が、鍵束「と」の相互的な同調という関係にまきこまれており、その遊隙の場「で」、さまざまに生起する気分や状況「に・遊ぶ」ことを意味している。わたしがなにものか「と・遊ぶ」という、遊び手に独特のふるまい、独特の関与がその内部にはらむ構造とは、こういうものである。(p.31)

●「遊ぶ」とは、対象に対して行う行為というよりも、そこで生成される場「で・遊ぶ」ことが重要と言われる。

●では、飽きについてはどうか?我々は「〜に飽きる」と言う。「遊ぶのに飽きた」*1
●われわれは「〜は飽きた」とも言う。だがこれに関しては「〜に関わること・〜を味わうこと飽きた」とパラフレーズすることができるだろう。飽きについての助詞は全て「に」に集約できるのではないか。
●では、そのとき、我々が飽きるのはいったい何に対してなのか。
●そこで飽きの対象となるのは、作品や本といった対象そのものではなく、そこからもたらされる内面的なものである。(西村のことばづかいを流用するなら、我々は、そこで生成される「場」に飽きると言ってもいい。)


●我々が「この作品にはもう飽きた」と言うとき、飽きた作品とは、志向がどこにも向かない状態を作り出した原因であり、また、そのようになるまで私(の頭)を疲れさせた刺激の原因となる対象である。
●その〈飽き〉は刺激に対する麻痺に近い。だが麻痺と飽きを同じに考えることもできない。痛みに対する麻痺は普通、飽きとは言われない。虐められるのに慣れるのは、それに飽きているわけではない。
●ここからわかるのは、飽きとは、その状態になる以前に、なんらかの能動的行為がなければならないということだ。われわれはいきなり飽きることはできない。〈能動的行為がいつの間にか能動性を失うこと〉、これが飽きの重要な要素である。


●これは受動的になるということだろうか?そうではない。この場合、能動性がなくなったからといって受動的になるわけではない。読書を考えたらわかりやすい。読書は飽きるともはや文字を追わない。それはもはや文字を受動的に受け取るような行為ではなく、文字・言葉を受容しない。音楽・映画は飽きても受動的に音・映像を受けとると、人は言うかもしれない。だが、音や光といった信号の知覚はあれ、そこに認識・把握・分節化はない。それは受動的把握というよりは、むしろ把握ではないのだ。
●志向性として考えると、飽きにおいては、もはや志向性は外部には向かわなくなる。しかし、だからといって、意識は内在に向かい自己を把握しようとするわけでもない。飽きと反省は別の行為である。


現象学的視点をとると、この〈志向性の欠如〉という特徴はよく理解できる。飽きているときには、対象との関わりはもはや意識の背後に退く。視覚の焦点はボヤけ、聴覚的な認識・分節化は起こらない。そのとき志向性は外に向かうでも内に向かうでもなく、ただ失われているのである。飽きとは志向性がどこかに向かっていることではない*2
●確かに、飽きをどのようなスパンで捉えるべきかという問題が残っている。その時間的な考察はまた跡で行うが、ここで議論を少し先取りして、志向性の観点から考えると、〈飽きの特権的瞬間〉というものを考えることが出来る。つまりそれは、志向が中断・宙吊りになっている状態である。もちろん先に述べたように、飽きとはファジーなものであるから、完全に志向性が中断していない飽きの状態もありうる。だが理論的には、意識の志向が対象に対しても自分の内面に対してもまったく向かっていない特権的状態を考えることも出来るだろう*3


●西村の遊びの理論では「遊び」は「場」であり、そこでの遊動感覚が遊びのであるといわれた。これはカントの〈構想力と悟性の遊動〉というテーゼにも通じる考え方である。
●だとすれば、飽きはおそらくその遊動の停止である。
●日本語で感動とは、文字通り〈感じ・感覚・感情が「動」く〉であり、英語でも感動する際に「moving」という言葉が使われるが、飽きとはまさにその〈運動の中止〉である。*4


●生理学的な観点からするなら、我々は物体、対象にではなく、刺激に飽きるのである。それは対象からの信号を処理することに飽きるということだ。
●飽きは対象との関係ではなく、刺激の扱い方の問題として捉えることで、飽きのメディア間の共通性を説明できる。刺激という点で様々な作品対象は重なる部分をもつが、それはメディア・ジャンルを超える。悲しい小説を読んだあとで、悲しい映画を観ると、「またか」と感じてしまう。もしくは、現実的に悲しい体験をしたあとで、同様の悲しい小説がつまらなく感じる。などなど。これは刺激の処理が共通しているからであり、その刺激の処理に飽きたからだ。(もちろん悲しい音楽が映画のシーンの悲しさを補強するという相乗効果もありうる。これは感情的・内面的な補強効果。)
●また、飽きは対象との関係ではなく、個人の中の情報処理の問題である。つあり飽きは個人的なものである。回りの空気に関わらず、飽きは個人の中にふと現れる。盛り上がっているパーティの最中、自分ひとり飽きているという状況はよくある(かどうかは人それぞれだが、とりあえずありうる。)
●難しいのは、「飽きる」と「気が逸れる」の違い。「気が逸れたのは、飽きたからだ」などと言われるように、飽きたは気が逸れるの理由として成り立つ。だが逆は不可能。気が逸れたからといって、飽きてるわけではない。さらにいえば、気が逸れて別な対象に意識が向かっている状態は、おそらく正確に言えば飽きではない。気が逸れるとは、飽きた後で志向が向かう先が変化しただけである。私としては、飽きとは〈志向性を持たない状態〉を指すと考えたい。

●おそらくここから「飽きる」と「飽きている」との違いが明らかになる。志向性を持たなくなるのが「飽きる」という動作であり、「飽きている」とは志向性をうしなってもはや志向性が無い状態である。

*1:「飽きている」についてはまた後で考えます

*2:カントの「情感的感性判断」と飽きとの関係を考えようかと思ったが、時間が無い、結構大変な作業になりそう、自分の能力が無い、などなどの理由で、また今度!

*3:先に述べたように飽きは現象学の文脈で目指されるエポケーとは異なる。私はエポケーに関しては、完全なエポケーはありえないと考える(cf.村上靖彦自閉症現象学』)。だが、飽きとは反省的思考ではないし、そもそも志向的行為ではない。したがって、飽きについてはこの特権的状態はありうると考えたい。

*4:先に述べた志向性の欠如と運動の中止の議論がうまくかみ合うのかどうかは、正直よくわかってない。これは、そもそも遊びの状態は志向性がどうなっているのかという問題が自分でもよく整理できていないからだ。