昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

飽きの現象学 1.2 飽きは新奇情報の欠如――ロボット、飽きと価値

●心理学で言われる「馴化」とは、信号に対する慣れを意味する。これはインプットはあるがそれが自分に与える変化・進化・発展はゼロということである。だが、これは情報量がゼロということではない。作品鑑賞に飽きるときも、その作品からの信号がゼロになるわけではない。飽きとはその情報を受容しない態度である。
●飽きは〈予測の固定〉という事態でもある。「もう先が読めた。」「またこの展開か」と我々はため息混じりにつぶやく。これは鑑賞中の作品を、既存の知識との照らし合わせることで、既に自分がこれまでの鑑賞体験から作り上げて保持しているある図式にカテゴライズしきってしまう態度である。
●情報の受容・適用・利用に対する拒否・疲れ。(これは見方を変えれば、情報は常に来ているのだから、受容・展開のスキルによっては、飽きずに深く作品を解釈できるということでもある。このスキルは批評家にとって重要なスキル。同じ作品を鑑賞しつつも、深い読みができるのが鑑賞のプロである。)*1
●この情報受容の拒否は、現象学における「括弧いれ」とは違う。現象学では本質直観を目指しつつ余分な情報が排除することが目指されたが、飽きにおいては単に情報が受容・把握されない。(このような事態を一番示してくれているのが、ニューロン疲労効果や視覚生理学における消失だろう。)


●「飽き」とは、情報処理が定式化・慣習化され、特に遊び、喜び、驚きをもたらさなくなった事態を指す。
●これはある面からすれば、嫌悪すべきことである。(前節で見たように)一般的に飽きは不快感を引き起こすと考えられているかもしれない。
●だが、本当に飽きそのものが直接に不快なのだろうか?確かに、飽きは快ではない。だが快ではないからといって不快なのだろうか?


●私は飽きは直接的な不快ではなく、快感、刺激、特に知的な刺激を求める欲求があるからこそ、飽きが相対的に不快となるのだと考えたい。欲求と合わさることで、飽きは不快となる。より刺激を求める者、より快感を求める者、より豊かな人生を送りたい者、そういう上昇志向の人達にとっては、飽きは無駄であり、時間の浪費であり、不快なのだ。
●よって逆に、新奇さは価値あるものとなる。これは生物学のレベルでもいえる話だ。視覚生理学における「消失」の原因が信号への慣れと考えられているように、新奇でない情報については、脳は扱う価値が少ないものとして、現れとして顕現させなくする。
●だが、進化学的・生物学的レベルで言うと、慣れは生存に有利な機能でもある。我々は慣れることで脳の計算力を効率的に使用できる。佐々木正悟が『ロボット心理学』でコリン・ウィルソンの「ロボット」という概念を扱っている。そこでは、脳内に情報処理の制度が出来上がること――佐々木はこれを「学習」と呼ぶ――が「ロボット」として表現され、その成立によって人間は徐々に楽しみを失ってしまうと言われている。(p.29)「ロボット」心理学
●この点に関しては最近は脳科学者がいろいろ言ってる。モギさんとかシモジョウさんとか。


●飽きると忘れる。共に人間的行為であるが、〈忘れる〉と違って〈飽きる〉は行動を繰り返すことで刺激に慣れることが原因である。逆に刺激は繰り返すことで長期記憶を形成し、忘れることを不可能にする。

(森 功次)

*1:ちなみにマリオンは「専心する者l’adonné」という概念について論じながら、〈呼びかけは常に起こっているが、それに対する応唱が疲れることで、我々は呼びかけを受容できなくなるのだ〉という議論をしている。Étant donné, p.398