昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

飽きの現象学 3.1 飽きは美術史における様式の変化を説明する。


●個人的な反応についてではなく、マクロな視点から飽きを考えてみると、様式の変化、流行の変化には飽きが介在していると言える。(もちろん最近の流行の変化は、むしろマスコミやファッション産業の意図が大いに絡んだ単なる営業戦略によるところが大きいが。)
●ここで主張したいのは、「飽きを見ることで次の様式を説明・予想できる」ということではない。ここで主張したいのはもうすこしネガティヴな主張で、「様式の変化は飽きを考慮に入れないと説明が出来ない」ということだ。


●我々が全く飽きないとすれば、芸術は多様化ではなく、一元化・過剰化に向かうのみになるだろう。しかし、飽きはその過剰化を食い止める。人はある様式に飽きることで別な様式を求めるようになるのだ*1
●また、飽きがまったくないとすれば、芸術は常に進歩しているということになる。だが、新しい芸術とは前の芸術よりも良いから受け入れられるようになるのか?もちろん、その場合も否定できない。だが、〈前の芸術が飽きられ、新しい芸術の新奇さ、奇抜さが受け入れられる〉という要素も忘れてはならない(というか個人的にはむしろこっちの方が多くないか?という印象。どっちが多いとか検証は難しいけど)。
●いずれにせよ、少なくとも、次世代の芸術の受容は、前の世代の芸術の受容(そしてそれに対する飽き)を踏まえて行われるものである。したがって、文化発展論争や美的評価についての問題は、飽きの視点を組み込んで考えねばならない。


●飽きを踏まえての受容とはいえ、芸術にまったく進化が無いというわけでもない。確かに、刺激への飽きという点だけをみるなら文化は進化せず、刺激→飽き→刺激→飽き、と移転だけしているように見えるかもしれない。飽きては新しい刺激を求めることの繰り返しは、飽きの低下と刺激反応の復活も踏まえて考えると、たんなる循環となるのではないかと予想されるかもしれない*2
●しかしそう単純ではない。刺激に対しては慣れが起こりそしてまた時間を経ることで刺激への反応は復活する。だが、知識の積み重ねはもはや削除することはできない。その積み重ねがある以上、文化は「知の面では」少しずつ発展する。知識は後退・減退するものではない。
●結局「文化は刺激反応の面では循環しつつ、知識の面では進展している」というのが現段階での結論。(異論は認める。というか文化発展論争については、俺より詳しい人がたくさんいるでしょうから、そのひとに説明して欲しいところ。)


●だが飽きがあるとはいえ、別の選択肢がない限りは様式は変化しない。選択肢の少ない古代にはほとんど様式変化は見られないし、近代西洋絵画では、マンネリズム化しつつも、アカデミー的に他の表現が許されなかったのでなかなか様式変化が起こらなかった。(この辺、嘘言ってたらごめんなさい。美術史プロパーのひと訂正よろしく)


●そもそも芸術理論をいくら積み重ねても、次に何が流行るのか、どうすれば面白い作品が作れるのかという問題はわからない。それは創作Creation・天才Geniusレベルの問題であり、凡人にどうこうできる問題でもないし、おそらく学問的に何か答えを出せる問題でもない。
●だが何に飽きているかは把握しやすい。これは凡人にも気づきやすい部分だろうし、統計によって、ある程度は、世間的動向を把握することもできるだろう。マーケティング会社が頑張っている仕事の一部分は、おそらく飽きの動向の把握だろうし、常識的に考えても、世間の飽きの動向に気づかない商品開発はコケる。
●商品開発側としては、流行は(ある程度)作り出すものであるが、飽きに関しては操作できない。失敗を避けるためにも、世間が何に飽きているかは忠実に把握しなければならない*3


●また形式化し、そこに欲求や期待を持ち込まないようにしてしまえば、そこには飽きの要素が入り込まないため、様式の変化は起こらない。宗教における参拝の方式などは、変化するものではない。
●礼儀作法もまた、あまり変化するものではない。それは、礼儀は芸術とちがって面白さなどが求められるものではないし、また、振る舞いにはなんらかの理論的な理由が定まっているからである。理論は――知識と同様――積み上げるもので飽きるものではない。よって礼儀作法は、理由の変化がない限り、変化しない。
●伝統化と形式化はしばしば混同されがちだが、残存している伝統は本当に飽きられていないのか、むしろ単なる形式化ではないか、この点は常に考えられるべきである。

*1:少年マンガの「敵の強さインフレ」への読者の反応は、まさにその典型。

*2:実際、「忠実な再現的描写」のブームは美術史的に周期的に現れてきているように思う。美術史プロパーな人、検討よろしく!。

*3:もちろん、「世間なんて知るかよ!俺はこれが大好きなんだー!」という一途さは、アーティストに求められる重要な部分かもしれません。「好きこそものの上手なれ」。でも、それが世間一般に認められるかは分かりません。もちろん地道にやってれば、いつか世間の飽きが収まって流行がリバイバルすることで再評価されるということはあるでしょう。