昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

飽きの現象学 3.3 現代社会における飽き

飽き飽きしている人間は、選択肢を多く抱え、様々な欲求を持つことが出来る時代にのみ現れる。彼らは、ある意味では幸福な世代である。飽き飽きという感覚は恵まれている者にしか感じることは出来ない。
●選択肢のない奴隷、頭が凝り固まった偏屈な者、被支配階級、働くしかない貧乏人、彼らには、飽きはない。今とは違う自分を夢見るのは無駄だと悟った人々は、欲求を拒否し、現在の行動を形式化することで、飽きの感覚を排除する。「飽きた」なんて言ってる場合じゃないのだ。江戸時代の農民は、おそらく「農業つまらねー!飽きた!」ってあまり言わない。(少しは言ってたかもしれないけど。「飽きたから農業辞めます」って農民はほとんどいないと思う。)


●仕事に関して「飽き」ということが広く言われるようになったのは、職業選択の自由が一般化した後ではないか?(これを、どうやって実証すればいいのかもよくわからないけど。)


●近代になって、文化の発展と普及によって、人々は文化に関しては飽きることが出来るようになった。印刷技術の向上、複製メディア技術の向上、文化業界の発展。これらが飽きの感覚を育てたともいえる。
欲求が育つが、作品が手に入らない時代。別の言い方をすれば、選択肢を思いつくが、その実効が難しい時代。これが一番飽きがピークになる時代である。(一昔前の地方とかまさにこういう状況*1。今は、amazonで何でも買える時代です。映画とか美術館とかはまだ格差あるけど。)


●現代はどうか。現代は技術発展と情報化社会によって飽きが深刻化しない状況を作り上げているとも言える。実行可能な選択肢が豊富すぎるからだ。自宅に引きこもっても、ツールさえあれば(そしてそれほど好奇心を膨らませなければ)数十年楽しめるほどの選択肢を手に入れることが出来る時代。引きこもりを見たときに湧いた「彼らは飽きないのだろうか?」と疑問は、事情を良く知らない者が勝手に考えた、お門違いな疑問でしかないのかもしれない*2。技術の進歩が我々が飽きる前に次々に新しい刺激を生み出していく時代であるから、好奇心なんか自主的に開発せずとも、それなりに満足できる時代になってきている。内向の時代というよりは、外から情報の波に攻め立てられる時代。現代は深刻な飽きを感じるのは難しい時代と言える。
●次から次へと与えられる刺激に慣れた我々は、飽きるということに慣れ、飽きを怖がらなくなってきているのかもしれない*3


※この節については、まだ自分の考えがまとまっていない。興味があるのは「昔と現代とで「飽きる」という感覚に何か違いがあるのか?違いがあるとすればどのような違いか?」という点だ。
芸術作品の受容のされ方の変化は、おそらくそこに関わっていると思うが・・・。

*1:ただこういう時って、夢は育つよね。たぶん。

*2:ニート・引きこもりが持つ「飽きの感覚」は、個人的にはすごく興味深い。

*3:でも私個人的には、「金を稼がないうちはあまり欲求レベルを上げない」という信念で生きております。欲求レベルを上げると生活に金かかるから、研究に支障が出る。