昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

飽きの現象学 3.4 飽きないもの――神、排泄等の低級欲、言語、依存。

ここもメモ程度。



●神に祈ることに飽きてはならない。そして祈りは形式化してはならない。


●楽しみに飽きた時、人は別の楽しみを探す。では、楽しむことに飽きると言うことは可能か?この点はよくわからない*1


●何度も述べたように、飽きない場合とは、もはや形式化してそこになんら刺激を求めなくなってる場合である。慣れ。そこに欲求が関わってくると飽きる。飽きない関係を作るためには、飽きる前に、欲求を消して形式化すればよいのだ。言語、死んだメタファー、熟年夫婦。


●排泄には飽きない。なんで?低級欲求は避けることが出来ないから飽きの対象にはならない?


●依存と飽き。
●依存は飽きない関係ではない。依存にもいくつかの種類があり、アルコール依存や恋愛依存などがあるが、依存とは端的に言って「それ無しではやっていけない状態」を指す。生活に支障が出るようになると、「依存症」と呼ばれる。
●これは刺激への麻痺というよりは刺激への依存。
●だが、依存は刺激という生理的レベルの話だけではなく、精神的レベルの問題も大きく関わってくる。恋愛依存。この点をどう考えるか・・・少し難しい。


●依存においても「慣れ」は起こる。そして〈依存〉と〈慣れ〉の並立は、むしろ更なる刺激を必要とする。
●では、依存において「飽き」は起こるのか?おそらく。
●例えば、ジャンクフードはどうか。ジャンクフードは、もう食べ飽きたと何度も思うが、また食いたくなる。だがこれを「依存」という言葉で指すのは不適切だ。これは飽きが収まって、また欲求が起こるというだけであり、飽きと欲求は並立していない。
●飽きと欲求が両立するのか?よくわからない。だがおそらく依存(症)とは、飽きを感じたとしても、それすら乗り越える形で起こる生理的欲求である。「もーうんざりなんだけど、嫌なんだけど、欲しくてしょうがないのよ!」という状態。そう言われると、普通は「何だそれ。おかしくね?」と思う。でもまぁ、その理不尽さこそが依存症の特徴であるのだろう。つか正直、そんな状態になったことないのでよくわからんもん。これは反省的に答えを出せる問題ではないよね。
●だが、「飽き」と、「依存という状態にある自分に対して感じる不快感」は別だ。それは飽きというよりはむしろ、あるべき自分と現状の自分とを見比べた上での単なる不快感・焦燥感であり、刺激に対する飽きではない。たとえば、アルコール依存症の自分に対する自己嫌悪は、さらなる依存へとつながるが、飽きはおそらくそのようなものではない。

*1:本当に無駄なものを褒めることが出来るか?という問題となんか似ている。