飽きの現象学
1.3 飽きと対象――飽きは志向的行為の終わり 追記
●自己についての非措定的意識――自己(についての)意識consciense (de) soi*1――を考慮せねばならない。意識の志向がある外的なものに向かっていても、我々はそれと同時に非措定的なかたちで自己についての意識を保持している。反省とはその非措定的自己意識を主題化し、その構造を前景化させることだ。
芸術体験においては意識が外的なものに向かったあと、この自己についての意識を主題化し反省的に自己を捉え直すことがしばしばある。(美的体験から反省への移行は、美的体験に必ず伴うわけではないが、もし反省が伴うとき美的体験は人間存在に対して実存的に重要な影響を与える(かもしれない)。)
●対象への意識から自己意識を主題とする反省までの過程は、志向性を単純に外から内へと向けなおすことではない。それは単純なゼロ(志向性の欠如)を間に挟んだプラスからマイナスへの移行ではない。マイナス(自己についての非措定的意識)は常に抱えられているのであって、反省とはプラスが消えると同時にマイナスが前景化することである。
通常の場合
(自己意識)←←←非措定的自己意識 志向性→→→→対象
↓
反省
自己意識←←←←志向性
志向性→→→→対象
●これをひとつの反省とすると、もうひとつの飽きを介した反省がある。
●飽きがこの過程に入り込んでくる場合、プラスと同時に抱えられていたマイナスをできるだけ忠実に(ただし完全なる再現は無理なのだが)そのまま前景化させる前に、いったん志向は停止してしまう。そのとき対象へと向かうときに保持されていた自己についての意識は、プラスに対する忠実性を失う。
●この場合、反省は記憶や言語、概念、知性を用いて、さきほど自分の意識であったものを構築せねばならない。
●我々はこの不純な反省によって作り上げる自己を、自己欺瞞的に受け入れる必要がある(mauvaise foi)。
●この二つの反省が、飽きの強さによって決まる程度問題の差なのか(その場合、志向性がどの程度失われるのかという問題となる)、それとも完全に質として差があるのか、見分けるのは難しい。なぜなら、そもそも時間的な差によって完全なる反省はできないからだ。結局、反省とはなんらかの余計な要素が入ってくる。よって反省の純粋さという点では、飽きが介在しようがしまいが、どちらの反省も不純である。
●だが、飽きが入るか入らないかという点では、不純な反省のうちにも、二つの不純性があるとはいえないだろうか?
●ここまで書いて気づいたが、飽きの際には内的意識がどうなるかという問題を考えなければならない。どこかに挿入しなければ・・・。自己を意識すらしなくなる瞬間があるのか?よくわからない。
●サルトルはその特権的瞬間を夢として記述している。サルトルの理論によれば、自己についての非措定的意識が囚われによって完全に失われているのが夢。
以上、まとまってないけど、自分用メモとして追記