昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

飽きの現象学 2.3 飽きと反省との関係

●「というか別にこれ美的体験に限った話ではなく、志向的行為全般に言えることじゃね?」という突込みが来るかもしれない。確かに。その点だけ見ると、この両テーゼは、たいしたテーゼではない。
●だが、このテーゼに「反省」という要素を加えて、もう少し美的体験の特徴を考えてみたい。


●美的体験について反省する場合、飽きがどの段階で入り込むのかという点で、我々は二つの反省を考えることが出来る。つまり〈飽きが反省の前に入る場合〉と、〈飽きが反省の後に来る場合〉である。

1.飽きが反省後に来る場合
作品受容 → 美的体験 → 反省 → 飽き

●美的体験と反省との間に飽きが入り込まない場合、その反省と美的体験とのつながりは密接なものとなる。感動的作品が鑑賞者に対して即座の影響を与える場合がこれにあたる。この場合、ポジティヴなケースでは、感動がもたらす感情的効果が、反省に対して強い説得力を与える。(この飽きを挟まない情緒的説得の効果は決して芸術体験に限られるものではない。「学問的感動のもつ説得力」、「つり橋効果」、など、様々なケースでこの効果は経験される。)また、ネガティヴなケースでは、感情的反発が冷静な反省を疎外することになるだろう。


●飽きが間に入り込む場合は、少し事情が異なる。(むしろこの場合、反省が起こらないことのほうが多いかもしれない。)

2.飽きが反省の前に来る場合
作品受容 → 美的体験 → 飽き →(反省)

●反省の前にまず飽きが入るために、そこでの感動の効果は薄れる。感動が薄くなった分、我々は知や概念を用いながら反省を行わねばならない。これはもはや理論的反省(概念的反省)という側面が強まり、自己欺瞞的な要素が強まる。(この場合反省の説得力は、理論の正当性に依存する。)
●というか、そもそも飽きの後には、もはや反省が起こらないかもしれない。我々の日常生活のほとんどは、このパターンだろう。


●感性的体験と飽きと反省という三つの要素の関係を見ると、単なる志向的体験とは異なる美的体験の特殊性が見えてくる。感性的体験の情緒的感覚は反省へと(飽きを介さずに)直結することで、反省に説得力を与える。