昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

飽きの現象学 2.2 感性‐飽きの一体説 the Aesthetic-Boredom unit theory

●しかし、ここまで見てきたように志向性の観点からすれば、感動を終わらせるのが飽きである。この観点からすれば、美的体験を終了させるのは、なんらかの飽きだと言える(かなり弱い飽きであったとしても)。
●感性的体験は必然的に飽きを伴う。感性的体験は飽きとなることで完結する。また逆に、〈飽き〉が起こるにはなんらかの志向的体験が必要である。(ただし、飽きには必ず感性的体験が必要というわけではない。理性的体験であっても飽きは起こる。)
●これを「感性‐飽きの一体説the Aesthetic-Boredom unit theory」(仮称)と呼ぼう。
●美的体験の終了には、ある種の「失望感」が伴う。サルトルが『想像力の問題』の末尾で「嘔吐」という言葉で表現したのは、想像的体験から現実への移り行きの際に感じるもの悲しさであった。それはイマジネール体験の終了であり、美的体験の終了である。(だが、サルトルはこの間の「飽き」という現象については特に述べているわけではない。)
●この「AB二元論」と「AB一体説」は矛盾するものではない。飽きと感性的体験とは、相反しつつ、つねにセットとなって経験されるものである。