昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

フィクションが現実の事件へもたらす影響について。


最近、猟奇事件をゲームや漫画などのフィクション作品に安易に連結する報道をチラホラ見かける。
「犯人は変な漫画読んでました!」って報道ですね。
ちょうど最近読んでいるいくつかの論文が、「物語のフィクション性が道徳や想像力とどのような関係を持つか」というテーマのものだったので、考えたことをいくつか記しておこうと思う。


参考サイト↓
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080114/1200283195
http://www.nx.sakura.ne.jp/~haituu/nhktv.htm
http://mainichi.jp/select/today/news/20080113k0000m040103000c.html



気になったのは、作品が事件に影響するか否かという点ではない。(そんなものケースバイケースだと思う。)
むしろ、その影響のさせ方についての考察が不十分なのではないかという点だ。
多くの報道が「作品中にある猟奇的内容に事件との類似性が見られた」という点から、安易に影響関係を主張しているように聞こえたのだ。


だが、ここで問題。
内容が一致・類似しているということが、即、事件への影響へと繋がるのだろうか?
事態は、もうすこし複雑なのではないか。


作品と事件、両者の内容の一致を主張するだけなら、物語作品じゃなくてもよい。
単に命題・文章だけで済むのだ。
「男の子がモデルガンを小さい子に乱射」「凶器をもって同級生に襲い掛かる。」などなど。
しかし、これらただの文章があったからといって、我々はそれに即影響はされない。
なぜなら、これらの命題は、それだけでは迫真性、リアリティを感じさせないからだ。
単純な命題は、知識の伝達・理解にはなったとしても、たいして想像力を喚起しないし、だから説得力も持たない。
(ちょっと専門的な話をすると、近年美学の領域で話題になった概念として「想像的抵抗imaginative resistance」という概念がある。これは単純に言えば「道徳的に受け入れがたい内容は、想像しようとしてもあまり想像力が働かない」という考え方だ。我々は「母親が嬰児を殺す」という内容を論理的には納得するが、なかなかリアルに想像できない。そのような内容をリアルに想像させるには、なんらかの形でそこに別の力を与えなければならない。物語作品が持つフィクション性はその想像力を喚起する力として最たるものである。
※imaginative resistanceについては、Kendall Walton, Tamar Gendler, Gregory Currie, Dustin R. Stokesらの論考がある。特にStokesの「記述的事実に対しては想像的抵抗が起こらないが、我々の価値観と対立する評価的事実に対しては想像的抵抗が起こる」という指摘には注目すべき。)


つまり、何が言いたいかというと、安易に影響関係を主張するんじゃなくて、作品の持つフィクション性というものをもう少し考えるべきだってこと。
ここで言っているフィクションの力とは、「一見受け入れがたい命題をも、リアルに想像させる」という力だ。
実際、新聞で事件の内容だけ読んでも、あまり想像力は喚起されない。
だが、ワイドショーでよく見られるような、「抑揚のついたナレーション」(たとえば東海林)や、得体の知れん役者が演じる「参考影像」や「イメージ影像」は、事件の内容にリアリティを持たせ、我々のイメージを喚起するのである。
ワイドショーに影響されやすい人間は、この力にやられているのである。


フィクション性が喚起するイメージが、事件の引き起こし方にどのように関係したかが考えられるべきであって、単に作品と事件の内容が一致しているからといって、単純に影響関係が言えるわけではない。
作品から喚起されたイメージに犯人がどのように影響されたか、これが考察されねばならないのである。

そして注意しておかねばならないのは、この喚起されるイメージは、単に作品の内容だけからは規定されないという点だ。
そこには、鑑賞者の価値観や知識、そして作品の社会的位置づけなど、様々な事柄が関係してくるのである。
この問題については、簡単に言うこともできないし、俺もよく分かってない部分も多いので、これ以上は何もいえない。
ただ、内容と影響関係は直結しないってのは、もう少し皆認識しておくべきだと思う。
もしかしたら、「『ひぐらし』見て、人殺しは良くないと思ったんだけど、やっぱり殺しちゃいました」って言う奴もいるかもしれないぞ。




最近の変な報道みると、想像力論とか今こそ重要だなぁと思うし、美学の分野はもう少しこの辺の事件に言及すべきだと思う。