昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

『分析美学基本論文集』、ウォルトン「フィクションを怖がる」の解説

数年ごしのプロジェクト『分析美学基本論文集』がようやく刊行の運びとなりました。

目次案をつくりだしたのが2012年春なので、3年半くらいのプロジェクトですか。
形になって良かったです。

目次はこうなってます。

『分析美学基本論文集』西村清和編・監訳
第1章 「芸術」の定義

  • アーサー・ダントー「アートワールド」(西村清和 訳)
  • ジョージ・ディッキー「芸術とはなにか――制度的分析」(今井晋 訳)

第2章 美的価値

  • ポール・ジフ「芸術批評における理由」(櫻井一成 訳)
  • フランク・シブリー「美的概念」(吉成優 訳)
  • ジョセフ・マゴーリス「芸術作品の評価と鑑賞」(橋爪恵子 訳)

第3章 作品の意味と解釈

  • モンロー・ビアズリー「視覚芸術における再現」(相澤照明 訳)
  • ジェロルド・レヴィンソン「文学における意図と解釈」(河合大介 訳)

第4章 フィクションの経験

  • ケンダル・ウォルトン「フィクションを怖がる」(森功次 訳)
  • ダニエル・ジェイコブソン「不道徳な芸術礼賛」(村上龍 訳)

わたしは8本目の論文「フィクションを怖がる*1」を担当してます*2




このエントリでは、いくつかウォルトンの論文について補足的な解説をしておきます。

ウォルトンがこの論文でやっているのは大きく2つ、

  1. 虚構的真理についてのアイデア提示
  2. フィクション観賞における感情emotionの説明

です。
この二点について少し捕捉を。


1.虚構的真理について

ウォルトンはこの論文で虚構的真理fictional truthについていくつかの説明をしています。この考え方はのちに主著Mimesis as Make-Believeで詳細に論じられることになりますが、この論文ではすでに中心的なアイデアが出されています。

・虚構的真理は一つのグループをなし、そのグループがそれぞれ「虚構世界fictional world」を構成するよ。
・虚構的真理には1.想像的真理と、2.ごっこ的真理があるよ。
・虚構的真理はthat節をもちいて、命題の形で示されるよ。
といったあたりが重要なところでしょうか。


ウォルトンは虚構的真理を論じるさい、「it is fictional that P」「it is make-believe that P」という表現をよく用います。
今回の訳では、「訳文では〈〉を使用しない」という監訳方針が立てられたので、すこしわかりづらいんですが、これらはそれぞれ
「命題Pで指示される虚構的真理が成立しているよ」「命題Pで指示されるごっこ的真理が成立しているよ」ということを言っています。
翻訳だと309頁あたりの話ですが、そこでは
「そのままごと遊びにおいては、みかん箱の中に泥の塊があるとき〈オーブンの中にパイがある〉という虚構的真理が成立しているよ」
というところがポイントです。

「彼がそのスライムを恐れているというのは、少なくとも想像的(したがって虚構的)である」(316頁)は、パラフレーズすると
「命題〈彼がそのスライムを恐れている〉は、少なくともその想像の中では真(したがって虚構的真理)である」という意味になります。


このあたりの話は、ウォルトンが何をやろうとしていて、どこにポイントがあるのかを押さえておかないと、すこしわかりづらいところかもしれません。


2. フィクション観賞における感情emotionについて

今回の訳文ではemotionは「感情」、feelingは「感じ」という訳語を当ててます。(わたしはemotionは情動と訳すほうが好きなのですが)。
この論文の主眼も、フィクション観賞中の情動をどのように説明すべきか、というところにあります。
ウォルトンは感情を、基本的には、信念beliefと身体反応(これが「準恐怖quasi-fear」と呼ばれる)のセットで考えます。
「自分が危険な状況にいる」と信じていて、「じんわり汗が出て、心臓がドキドキしてる」ならば、それは「恐怖(fear, afraid)」だ、というわけです。

ウォルトンはこの論文では、前者の信念部分を攻撃します。

  • フィクション観賞者は「自分は危険な状況にいる」などという信念をもっていない。
  • なので、その感情は文字通りの意味での「恐怖」ではない。

という論法argumentです。

この「フィクションを怖がる」という論文は、今年出たウォルトンの論文集In Other Shoesに再録されてまして、そこでいくつか補足の注がくわえられてますので、このエントリではそれを紹介しておきます。

補足されたのは、以下の2点です。

1. 翻訳だと原注10の後に以下のようなコメントが加えられました。
「わたしは、この信念それ単独ではチャールズの準恐怖を引き起こさない、と言うべきであった。質の低いホラー映画を観るとき、ひとは〈自分が虚構上で危険な状況にいる〉ということに気づいているものの、そこでは準恐怖の経験はまったくないだろう。その人は、ただ笑うだけなのだ。」


2. 翻訳だと316頁の2段落目、「とくにそうしようと思わずに、自分はスライムを怖がっていると考えてしまうという傾向をもっているのだ。」の後に、新たに次のような注が加えられました。
「R. M. Sainsburyは、Fiction and Fictionalism (New York: Routledge, 2010)のpp.vi-vii, 19において、わたしのフィクション理論に、主に彼が「フィクション消費の高度に能動的な図式」と呼ぶものの観点から、反論している。これはわたしの説に対するとてもアンフェアな特徴付けだ。というのも、わたしはチャールズがやっているような想像は、自動的で、非意図的で、フィクション作品によって喚起されるものだ、と述べているのだから。チャールズは怖がっていることを想像しようと選択することはないし、攻撃的なスライムを想像しようと選択することもない。これについてはわたしのMimesis as Make-Believe (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1990), pp. 14-16も見よ。」


こうした補足を踏まえると、より理解が進むと思います。



ウォルトンは、自分の理論がいろいろと誤解・誤読されてきたことをうけて、いくつかの補足説明を行っています。

あたりを読むと、より理解は深まると思います*3


あわせて『分析美学入門』第8章「フィクション」もどうぞ。
では。

*1:Kendall Walton (1978) "Fearing Fictions" Journal of Philosophy 75

*2:あとディッキー「芸術とはなにか」の最終訳文作成と校正と、巻末の索引の整備

*3:あと拙稿「ウォルトンのフィクション論における情動の問題――Walton, Fiction, Emotion」も挙げておきます。