昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

ウォルトンのCategories of Artを全訳しました。補足と解説。

ケンダル・ウォルトンの「芸術のカテゴリー(Categories of Art)」の全訳をnoteで発売しました。pdfで390円です*1

K. Walton「芸術のカテゴリー」|morinorihide|note


論文の議論のおおまかな内容は上記の販売ページでも紹介したので、こちらではもう少し細かい補足話をいくつか述べておきます。
「訳者あとがき」的な解説だと思って読んでいただければ。


販売ページで述べたように、「芸術のカテゴリー」は現代の英語圏美学における超古典論文です。
専門家の中で本論文の重要性を否定する人はほぼ皆無だと思います。英語圏美学の論文をいくつか読んでたら、少なくとも注などで必ず見たことあるはずです。
日本ではウォルトンといえば清塚邦彦先生の『フィクションの哲学』などの影響もあって、メイク・ビリーヴ理論の重要な論者として知られています(今度出る『分析美学基本論文集』でも「フィクションを怖れる(Fearing Fictions)」という超重要文献が収録されます)が、そのメイク・ビリーヴ理論を組み上げる前に、ウォルトンはまったく別のテーマで分析美学史に残る超重要論文を書いていたわけです。しかもこれはウォルトンが美学の領域で書いた初めての論文だというから驚きです。最初の一本がいきなり古典的論文というのはほんとにすごい。
"Aesthetics and Theory Construction" *2 というインタビューの中でウォルトン本人が述べてますように、ウォルトンはもともと美学を教えてはいなかったらしいです。ミシガン大学に就職して少しした後に「美学の授業もやってみないか?」と誰かに頼まれて、その授業の結果として生まれたのがこの「Categories of Art」という論文だということです。もうなんというか、才能の違いを感じる。じっさい1970年代のウォルトンの論文にはおもしろいアイデアがたくさん出てきます。哲学的なアイデアマンとしてのセンスはもう抜群なわけです。具体例の出し方がほんとに上手い。そして、そのテーマについて考えたくなる魅力的な文章を書ける人です。
事実ウォルトンには、新トピックのきっかけとなる論文がいくつかあります。今度わたしが訳した上述の"Fearing Fictions"もそうだし、あとは写真の透明性(transparency)について論じた論文("Transparent Pictures: On the Nature of Photographic Realism")も大きな議論を呼びました。主著であるMimesis as Make-Believe(1990)は現在日本語にも翻訳中とのことですが、それ以外のところでもウォルトンは重要な仕事してるんだ、ということは押さえておくべき重要なポイントだと思います。


著者紹介はこのへんで終わらせて、本エントリでは、論文「芸術のカテゴリー」について、二点ほど補足的なことを書いておきます。


1.
一つ目は、ウォルトンが述べている「作品が正しく知覚されるカテゴリー」を確定するための四条件についてです。
ウォルトンの提示する条件は以下の4つです。

  1. そのカテゴリーにおいて見たときに、標準的特徴が比較的多くなり、反標準的特徴が最も少なくなるカテゴリー
  2. 作品が最もよく見えるカテゴリー
  3. 作者が意図していたカテゴリー
  4. 作品が提示された社会において確立しており、はっきり認識されされているカテゴリー

条件2,3,4はそれぞれ「美的原理」「意図原理」「慣習原理」とでも呼べるような条件です*3


この解説で紹介しておきたいのは、この条件についての反論とウォルトンの再反論についてです。


論文Categories of Artが出たすぐ後の1973年に、Daniel O. Nathanが短い反論論文"Categories and Intention"を出しました。
作品批評から作者の意図を切り離したいネイサンは「条件3,4は要らないんじゃないか」と反論したのです。変なカテゴリーを排除するにはほかの条件、とりわけ条件1を駆使すればいいのではないか、という主張です。


これに対して、ウォルトンはすぐさま反論を寄せます。("Categories and intentions: A reply")
論文内での《ゲルニカ》の思考実験が示しているように、条件1,2だけでは正しいカテゴリーは確定できない。批評家がすぐ思いつくような安易なカテゴリーなら条件1だけで排除できるかもしれないが、作品が属しうる可能的カテゴリーはきわめて膨大、かつものすごく突飛なものがあり、それらをきちんと弾くには条件3,4も必要なのだ、とウォルトンはいうわけです。
ウォルトンはこの反論内で、あらためて「見知らぬ言語で書かれている詩」をつかう思考実験を行っています。
現在われわれの社会にある平凡な詩は、詩人本人が知りもしないし語ったこともない言語で読んだときに、ものすごく深遠な思想を語った価値の高い詩になるかもしれない。
だがだからといって、その詩を「その架空の言語で書かれた詩」というカテゴリーに置くことは間違っている。
この間違いを正すには、条件1,2だけでは不十分なのだ、とウォルトンは言うわけです。
意図や慣習の必要性をあらためて提示した形になっています。
「芸術のカテゴリー」第IV節の理解を深めるためにも、ウォルトンの再反論は読んでおいて良い文献だと思います。


2.
紹介しておきたい論点の2つ目は、販売ページでも触れていたLaetzの論文です("Kendall Walton's ‘Categories of Art’: A Critical Commentary")。
私の知る限り、Categories of Artに関する最良のコメンタリーです*4
Laetzはこの論文で、ウォルトンの受け止められ方は実は大きく二つの立場に分かれる、と述べます。ある者たちはウォルトンを「文脈主義者(contextualist)」として解釈し、また別の論者たちはウォルトンを「洗練された経験主義(reformed empiricist)」として解釈している。
だが実はウォルトンの立場はふつうの文脈主義とも違う、哲学的に非常に独特の立場なんだ、とLaetzは主張するわけです。
なかなかおもしろい視点です。Laetzはこの論文で結局ウォルトンのいう「正しいカテゴリー」とは何なのか?という問題を考えていくわけですが、そこから提示される「正しいカテゴリーとは単に作品が属するカテゴリーではない」という主張はなかなか説得的です。
レヴィンソンの音楽論との比較も面白い。
ウォルトンの立場をよく検討したい人には一読を勧めます。


ちなみに著者である若き俊英Brian Laetzはこの論文を仕上げる直前に亡くなったらしく、この論文は、その死を受けてDominic McIver Lopesが仕上げてBJAに載せたという涙なしには読めない論文になってます。この論文は、著者名のところに短剣符(†)つきで発表されました。
1977年生まれのLeatzは若干30ちょい過ぎの年齢でJAACに"A Modest Defense of Aesthetic Testimony"(2008)という論文を載せていて、こちらもなかなかよい論文です。ほんと貴重な才能が失われたのだなぁという思いがします。UBCの哲学科も当時は追悼ページを設けてましたね。
彼の死後、彼を顕彰する論文賞Brian Laetz Graduate Essay Prizeが作られたそうです。


あわせて宣伝:先日松永くんがM. Weitz「美学における理論の役割」|まつなが|noteを訳して公開してます。ウォルトンを訳すにあたっては、売り出し方や版組の点で、わたしも大いに参考にさせてもらってます。こちらも分析美学の古典的論文ですので、あわせてどうぞ。

*1:クレジットカード登録とかめんどくさいよ、という人はメール等で連絡いただければ別途対応いたします。メールでpdf送ってもいいですし、印刷版手売りも可。

*2:このインタビューはオランダ語に訳されて公開されてます。“Esthetica en Theorievorming: Een Interview met Kendall Walton.”昔は英語版が何処かからダウンロードできたんだけど、今は見つからない。削除されたかも。もし欲しい人いたら連絡ください。

*3:この条件を提示したすぐあとでウォルトンは、エッチングなど一部の芸術形式については「作品の製造工程が正しいカテゴリーを決める」とも述べているので、この「工程原理」を入れるならば、正しいカテゴリーを確定する条件は五つとする解釈も可能です。

*4:ただ私としては、Laetzの議論は「芸術のカテゴリー」第五節の主張を上手くすくえてない気もするんですよね。いつか反論論文書きたいところ。