昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

想像的抵抗について

こないだの日記で触れた、「想像的抵抗Imaginative Resistance」という概念が分かりにくいと言われたので少し捕捉しとこうと思う。


想像的抵抗というのは、「非倫理的な命題(たとえば「嬰児殺しは善だ」という命題)を想像しようとしたときに、あまり想像力が喚起されない、つまり、あまり活き活きとした内容のあるイメージが湧かない」、という現象とされる。


まずここで、「嬰児殺し」そのものが想像しにくいと言っているのではなく、「嬰児殺しが善だ、すばらしいのだ」という価値評価を含んだ命題が想像しにくいと言っていることに注意しときますね。(単に「母親が赤ん坊コロス」ってだけの記述的命題に関しては想像的抵抗は起こらない、という考えです。)


ここで、そもそも「〜が善だ」とか「〜が良い」とか想像できんの?って疑問を持つ人がいるかもしれない。
「善」とか「良い」とか想像できなくね?って疑問は、もっともだと思う。
ただ、まず、イメージというのは、単に視覚的なものだけではないという点には注意しておく必要がある。
我々が思い浮かべるイメージとは、しばしば視覚的・映像的なものだと思われているが、そうではない。
想像することとは、何かを見ることではない。
そこには視覚的なもの以外にも様々な要素が入り込んでくるのだ。
(この辺のイメージ論は基本的にサルトル的な現象学的想像力論に則ってます。)
イメージには「善だ」とか「良い」とか「楽しい」とか「悲しい」とか、そういった知的要素、感情的要素が入り込んでくる。(少なくとも俺はそう考えている。)


イメージ論ついでに、西村清和先生が論文「読書とイメージ」(『美学』196号、1999、pp.1-12)で、ペグ仮説という考え方に触れていたので少し紹介しておく。
これは想像においては、核となる事物(いろんな要素を引っ掛けることができるペグとなるもの)が重要な働きを持つというものだ。
たとえば、ただ「気持ち悪い」「白い」という曖昧なものを想像するのは難しいが、「気持ち悪い足」とか「白い布」とかは想像しやすい。ここでは「足」や「布」がペグとなってるのだ。


これを踏まえて、同様に、ただ「善」を想像しようとしてもかなり曖昧でぼんやりとしたものになってしまうが、「財布を届ける行為が善だ」というイメージはある程度はっきりしたイメージとなることができるのではないかと、俺は考えている。



ただ「嬰児殺しは善だ」となると、イメージが上手くいかない。想像的抵抗Imaginative Resistanceだ。
別に「わたし全然想像できるんだけど」っていう人は、まぁ個人差ってことで話を聞いていただきたい。
(確かに個人差はあるのだ。想像という行為は、想像する人の状況や知識や価値観ほか、様々なものを含んで考えねばならないので、一概に話すのは難しい。誰でも疲れてたらもう変なこと考えたくもないし、クスリやってたら変なものいくらでも想像できるんじゃね?俺やったことないけど。)
Dustin R. Stokesという人は、この抵抗の重要なきっかけは、命題が提示する価値観と想像する人の価値観との対立だと考えている。(‘The Evaluative Character of Imaginative Resistance’ British Journal of Aesthetics 2006 Vol.46, No. 4, p.387-405)
作品が提示する事柄を何らかの「価値付けevaluation」をしながら想像するとき、その価値付けの仕方が個人の価値観と大きく異なる場合、イメージが湧かない、と彼は言うのだ。
つまり自分は嬰児殺しを善とする価値観を持っていないので、嬰児殺しが善であるという想像に失敗するのだ、と。



ただし、フィクションはこの想像的抵抗をある程度緩和させる力があるとも彼は言う。
フィクションは我々が別の観点、別の価値観を「ためすtry on」ことを可能にするのだ。
このおかげで、我々は小説や映画を読みながら、想像的に、殺人者の気分を味わうこともできるし、自分は全く年下趣味はないのに妹キャラかわえーって気分を味わえるのである。
確かに自分の趣味と合うほうが想像力はより喚起されるかもしれない。(「ガチ萌え」ですね。)
しかし、価値観が合わずとも、我々は「妹キャラ萌え」に想像的に共感できるのである。




疲れたので、以上。
まぁこんなこと書いてるのも、今日一本論文紹介終わったからでした。
来週もう一本、論文紹介。次は「物語作品の道徳性」について。
気が向いたら、またなんか書きます。