昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

フィクション性についての試論、(というか自分なりのまとめ)


なんか「フィクションとは何か」がよくわからんくなってきた。
論者それぞれ、捉え方が様々すぎるのでちょっと整理したい。
ただこの整理が正しいのかわからないし、整理されているのかも微妙。
むしろ、聡明なひとが粗捜ししてほしい。助けてーカシコイ人。



以下、自分なりのまとめを含む整理。

フィクションか否かは少なくとも3つの基準がある。アシンメトリーの形で書くと次の通り(左側がフィクション)
1.真理値(truth value)をもたない vs 真理値を持つ
2.信じ込む必要がある(need to make-believe) vs 信じ込む必要は無い(need not to make-value)
3.想像力が豊かに働く vs 単なる論理的な把握


以下、まず三つの基準について解説しておくと、
1はビアズリーの基準。ここでいう真理値とは「正しいか、正しくないか」ではなく、「正しいかどうかが問えるかどうか」という意味。(上のの三つの基準にもうひとつ「誤りvs正しい」という基準をプラスすべきかもしれないが、とりあえず外しておいた。正しくない文章はフィクションではなく単に誤りであるから。)ビアズリーは、この真理値を「現実との対応があるか」という観点から考えている。

2はKendall Waltonの基準に近いが少し違う。Waltonの「make-believe説」に対するChristopher Newの「我々はフィクションではない文を全て信じているわけではない」という批判(British Journal of Aesthetics, Vol 36, No.2, 1996)を受けて少し変えた。サルトルの想像と知覚の分け方を参考に、ノンフィクションは「信じ込む必要はない」という形にチェンジ。

3については、そもそもフィクションと想像は関係ないという人もいるかもしれない。ただ、たまにこの基準と混同が見られる議論もあるので、一応整理のために入れとく。「ニュースや哲学書をフィクションとして読む場合もある」とか言うとき、議論がこの3の基準に摩り替わっている場合がある。




そしてさらに、この3つの基準を、4つのレベルで判定しなければならない。
1.慣習的にどうすべき、どう捉えるべきと見なされているか
 (判定のレベルは慣習convention。主にこれは文章単位というよりも、作品全体としての判定される。ある程度まで、客観的。例)「小説はフィクションとして読まれるべき」)
2.読者行為の中で読者にどう捉えられているか
 (現象学的読書論、かなり主観的。例)「俺はこれをフィクションとして読む」)
3.作者がどのように読まれるよう意図して制作しているか
 (作者と作品との関係、歴史的判定、客観的。例)「彼はこれをフィクションとして書いた」)
4.作品内在的にその機能(またはそうさせる機能)をもつかどうか
 (こちらがどちらかというと文章単位の判定例)「この文章はフィクションとして読める」)


以上のような考え方をすると、フィクション性の認定には、「2の3乗(三つそれぞれの基準で、どちらかになるか)」×「4つのレベル」=32通り(!)あることになる。
もちろん上の3つの基準自体が排他的なものではないから、この中で重なる部分もかなり出るだろう。
そして、これらの基準は、単に「この作品がフィクションかどうか」という「作品」についての判断ではなく、「この場合において、この作品はフィクションである(となる)」という「事態、出来事」についての判断である。(この辺の表現がイマイチどう表現したらいいかわからん。「出来事」って何?って突っ込まれると弱い。)
あと、32通り全てにそれぞれの具体例があげれるかどうかも微妙。


でも基準とレベルの2段階で考えた方が、整理は出来る気がする。



ただ、このように考えてみたところで、「32通りかよ!」って突っ込みたい。自分で。
大杉!
果たしてこれは整理されているのかね!?
このような分類に意味はあるのか?俺!
よくわからん。まぁ少しは整理されたけど。
なんか様相論理学とかも絡んできそうだし、可能世界論とか考えなきゃいかんのだろうか?
泥沼に嵌り込みつつある気もする。
もがけばもがくほど沈むけど、諦めて投げ出せば助かる泥沼。



もう少し考えよう。


追記:グッドマンとマゴーリスの議論忘れてたー。
とりあえず、無視。