昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

現代ビジネスに『シン・エヴァ』記事を書いたので、そのネタバレ論をさらに掘り下げて解説

 『現代ビジネス』に記事を書きました。

 『シン・エヴァ』まわりではみんなネタバレに配慮していて優しいね、という話です。基本ネタバレなしで、おもしろかったとか、つまらなかったとかも書いてないですが、記事を読む人は、まず記事冒頭の注意書きをよく読んでください。

 

 

 

 『シン・エヴァ』は3/10の水曜に見に行ったんですが、映画館出て携帯電源入れたら執筆依頼メールが来てました。タイミングに運命を感じる。

 

「『シン・エヴァ』で、ネタバレなしで、ネタバレ論を書く」

これ、けっこうムズいお題だったんですが*1、けっこう早く書き上げることができて金曜昼には校正まで終えたので、「俺頑張ったなー」と悦に入ってました。

でも、よくよく考えるとガチファンの方たちは、情報量が格段に上の考察を公開直後にupしてるんですよね。あれに比べると全然ですわ。

 

 

さて、今回の記事では、冒頭に次のような注意書きを入れてます。

【注意】本記事は、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の内容にはまったく触れていません。普通の意味での「ネタバレ」を避けたい人でも、安心してお読みいただけるはずです。とはいえ、余計な情報を入れずに『シン・エヴァ』をまずは真摯に味わいたい方は、この種の記事すらも避けたほうがいいかもしれません。

 

このエントリでは、この注意書きの真意を解説しつつ、ネタバレ論の話をもう少し掘り下げていきたいと思います。

 ポイントは、(1)なぜ「普通の意味での「ネタバレ」」というまどろっこしい書き方をしたのか、そして、(2)なぜ人によってはこの種の記事でも避けたほうがいいのか、の2点です。

 

【注意】以下の考察では『シン・エヴァ』のネタバレ情報を出しています。『シン・エヴァ』未見の人は、以下の考察を読むかどうか、よく考えて下さい(いずれにせよ、先に上の『現代ビジネス」の記事を読んでね)。

 

 

 

では、考察に入ります。

 

 

1.ネタバレ概念をどこまで広げるか:公然の事実、演出技法、表現の狙い

 以前、『フィルカル』に載せた論文では、「ネタバレ」の語義をかなり広げて議論を組み立てました。

 

philcul.net

 

 ふつう「ネタバレ」というと、犯人・トリックをバラすとか、物語の筋をバラすとかを指すと思います。今回の『現代ビジネス』の記事でも、その部分は当然避けました。

 この種の分かりやすいネタバレは、けっこう分かりやすいネタバレなので、あまり「これってネタバレなの?!」という揉め事は起こりません。ただ「どこからがネタバレなのか」という問題は、ネタバレを議論するときにもしばしば問題になる点です。

 

 先の記事では、通常の意味での「ネタバレ」はなし、としましたが、実は広い意味では「ネタバレ情報」と言えるかもしれない情報を含んでいます。

 このあたりの部分です。

「この作品の発展は、監督個人の思想および人生経歴とセットで語られるべきものだ」(5頁)

「『シン・エヴァ』は、同作の爪痕を抱えながら生きてきた人たちに向けて、庵野秀明が送り直す最終提出物である。」(6頁)

 

 ここで言われていることは、ファンの人であればごく当然のごとく把握している事実ですし、作品公開前でも言える情報ですので、ふつうは「ネタバレ」とは言いません。

 

 でも、これは『シン・エヴァ』を観る上では、絶対に押さえて置かなければならない重要な点でもあります。

 この部分を踏まえずに『シン・エヴァ』を見ても、特撮スタジオ風の戦闘シーンとか、最後の映像が実写風になるところなどは理解できないでしょう(ラストシーンの新宇部川駅は庵野秀明の地元、宇部市の駅)。

 市街地戦闘シーンで住宅が模型みたいな崩れ方をしてるのは、明らかに特撮らしさの表現です。そのシーンを普通のロボットアニメと同じような態度で観てしまって「なんか戦闘シーンのCGちゃちくない?」と思ってる人は、作品の見方が分かってないわけです。そういう人は、特撮スタジオ風の戦闘シーンが出てくるあたりは、理解不能でしょう。「なにこの謎アニメ、意味分からん」となって終わりです。

 

 このような、そこをふまえておかないと作品が理解できないような、公然の事実をどうあつかうべきか。それを指摘することはネタバレになるのか。 

 

 この問題を考えるために、まずはこう考えてみましょう。

 先の記事で、仮にこういう言い方を出してたらどうでしょうか。

 

「『シン・エヴァ』には、ファンに向けたメッセージとして、庵野秀明本人の実人生を絡めたいろんな表現が出てくる」

 

 この言い方は、ストーリーには触れてませんが、多くの人はおそらく「ネタバレ」に含めるのではないかと思います。表現の目的・テーマをはっきり限定しているからです。

 さらにメタフィクション的演出が出てくるよ」みたいな言い方をしてたら、もっとダメでしょう。

 

 「特撮スタジオ風の演出」というのは、どんでん返しのような作品の根幹部分の演出ではありませんが、それでもひとつの演出(それも、気づく人のみがその意味に気づく演出)です。そうした演出技法が出てくることを予告をするのは、作品鑑賞に余計な期待・事前解釈を持ち込ませることになるので、嫌う人も多いと思います。

 

 「公然の事実」をどうあつかうかは、また後で考えるとして、ひとまず「表現の狙いの指摘」「(根幹部分ではない、細かな)演出の種類の指摘」、これらはやはり、僕としては「ネタバレ」のほうに入るものだと考えます。

 これらは、これらはストーリーや犯人、トリックに言及しない点でネタバレ度合いは薄いですが、それでも広い意味でのネタバレに入るものでしょう。

 

 

2.ネタバレとそうでない情報をどう分けるか

 問題は、ネタバレとそうでない情報をどう分けるかです。

 『フィルカル』に載せた論文では、ネタバレに入るかどうかの基準のひとつとして〈味わうべき工夫によって、本来得られるはずだった感動を減じる情報〉といった考え方を提案していました。

 この基準では、映画の予告編や宣伝チラシなどもネタバレに入ることになります。映画予告編は味わうべき魅力的映像を事前に見せることになりますし、宣伝チラシも作品を事前に低画質で見せることになるからです。

 しかし、ここまでネタバレ枠を広げると「なんでもかんでもネタバレになるのでは」という批判も受けることになります。『フィルカル』の論文にも、「ネタバレ概念広すぎでは」という批判はけっこうもらいました。

 僕自身は、このようにネタバレ概念を広げることで現代文化のいろんな悪さが見えてくるので、これでいいんだ、という立場なんですが、とはいえ、「ネタバレ概念広すぎ」という批判には対しては、もう少しうまく応答する必要があると思います。

 

 

3.「ネタバレの度合い」を考えることで、広いネタバレ概念をより使いやすくする

 この問題を考える上で、ネタバレの濃さ・薄さのような度合いを考えることは、ひとつの手です(別に用語法は「濃い・薄い」でも、「中心的・周辺的」でも何でもいいんですが)。

 濃いネタバレ(ストーリーの結末部分、重要な演出)と、薄いネタバレ(オマージュ、隠れたテーマ)といったように、ようにネタバレに度合いを考えることはできます。

 濃い・薄いの度合いを決めるのは、「そのネタバレによってどれくらい観賞が阻害されるか(どれくらい快が減るか)」です。クスッとした笑い、オマージュ発見の快楽(優越感)、などを減らすのは、薄いネタバレの対象になります。作品の重要な面白さが味わえなくなる犯人バラシなどは、濃いネタバレです。

 このような度合いの説明は、僕らが「これくらいの情報ならネタバレしてもいいかな」と決めるときの判断基準におそらく合致してるんじゃないかな、と思います。オマージュ表現の存在をバラすのは、「発見の快楽を捨ててでも、それを知って作品理解を向上させたほうがいい」と考えるからでしょう。

 また、(僕はこの立場には立ちませんが)「犯人を知っていてもこの作品は楽しめる」と考える人は、犯人バラシを薄いネタバレに入れるかもしれません。

 

 このようにネタバレの「薄さ・濃さ」を考えることで、「何でもネタバレになるやろ」という反論に、「ネタバレのいろいろな悪さは説明できるから、それでいいんだ」「あなたたちがネタバレじゃないと思っているのは、薄いネタバレなんだ」と応答できるようになります。

 

 

4.「公然の事実」もネタバレになりうる

 しかし、さらに微妙なのは、先の記事内で触れ出していたような情報です。もういちど引いておきます。

「この作品の発展は、監督個人の思想および人生経歴とセットで語られるべきものだ」(5頁)

「『シン・エヴァ』は、同作の爪痕を抱えながら生きてきた人たちに向けて、庵野秀明が送り直す最終提出物である。」(6頁)

 これらは、ファンにとってはごく当たり前に理解されている、「公然の事実」です。映画の宣伝文句にも、この種の文言は入っているかもしれません。

 ですが、作品鑑賞中にこうした点を思い出し、作品の演出に気づくことができるかどうかは、人によります。分かる人たちは、メタフィクション的演出や実写風の新宇部川駅の意味を観賞中に気づいて、「分かるよ!」「これは自分たちに向けられた演出だ」とある種の共感を感じるわけです。逆に、わからない人は、いくら上記の「公然の事実」を知っていても、その演出の意味がわからない。この分かる人と分からない人との差は、分かる人にある種の優越感をもたらすものでもあり、その優越感は観賞の快にもつながっています。

 

 A「庵野秀明本人の実人生を絡めたいろんな表現が出てくるよ」が薄いネタバレになるとしたら、B「この作品の発展は、監督個人の思想および人生経歴とセットで語られるべきものだ」という公然の事実の指摘はネタバレになるのか。

 これは微妙なところです。

 Bを「Aを示唆するヒント」として読む人は、Bすらもネタバレ的な指摘に含み入れるかもしれません。「わざわざその点を指摘していたから、そこに意識が向かってしまって、発見・気づきの達成感が減ってしまっただろ」と考える人もいるかもしれません。

 『現代ビジネス』記事の注意書きで、「普通の意味での「ネタバレ」」は含んでないですよ、という回りくどい言い方をしていたのは、その懸念があったからです(まぁここまでネタバレ概念が広い人は、数としては少ないでしょうから、記事タイトルには「ネタバレなし」と書きましたが)。

 

 

 まとめ

 作品を理解する上で重要な公然の事実を指摘することは、通常はネタバレには入りませんが、その事実をわざわざすることは、場合によってはネタバレになりえます。

 「公然の事実」の指摘が、観賞中の意識に余計なバイアスをかけるなどして、観賞(発見の快楽)を阻害するとしたら、それは薄いネタバレです。その阻害の度合が大きさによって、薄いネタバレは若干濃いネタバレになるでしょう。

 既存の情報のどこに意識を向けておくか、というのも観賞スキルのひとつです。そのスキル発揮を邪魔されたくない人にとっては、公然の事実を散りばめた記事ですら、観賞の妨げになりえるのです。

 

 

*1:依頼は「シンエヴァ現象を枕に置きつつ、ネタバレの美学的考察について一般向けに紹介する記事」というものだったので、「ネタバレなし」てのは編集者からの依頼ではないんですが、自分はこれまでにアンチネタバレの立場を繰り返し主張してきましたので、ここでネタバレありの記事書くわけにはいくまい、ということで自主規制しました。おかげで執筆のハードルはかなり上がったんですが。