昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

  スポーツ美学試論


E.バローは1912年の論文で「心理的距離psychical distance」という概念を用いて様々な藝術経験を説明しようとしています。
バローの論点は主に以下のようにまとめることができます。


・美的aestheticな体験はその対象から心理的距離をとることが必要。これは空間的距離とも時間的距離とも異なる、鑑賞者の意識によってもたらされる心理的距離である。
・距離が消失しない様にしながら、できるだけその距離を縮めることが望ましい。
・距離が縮まりすぎるとunder-distanceの状態となり、対象経験は生々しいもの、おぞましいものとなってしまい、美的体験が不可能となる。逆に距離をとりすぎるとover-distanceの状態になって、単なる白けたような経験にしかならない。

 この「心理的距離」という概念で藝術経験の様々な様相を語ることが適切かどうかはさておき、この「美的経験のためには何らかの形で対象から離れた状態になくてはならない」というテーゼについて考えてみると、少し面白いことが見えてきます。



 この「対象から離れる」という姿勢を藝術体験の一要素と見なす考え方はわりとよくある考えであって、オルテガの1925年の論考にも見られますし、1940年のサルトルの『想像力の問題』にも同様の考え方を見て取ることができます。
サルトルはdistanceではなくreculという単語を用いていますが。)
 現代でもこの考え方は生きているといえるでしょう。映画『エレファント』の監督ガス=ヴァン=サントはインタビューで「映画の中に観客に考えさせる時間を多くとった」と述べていますが、その「考えさせる時間」とは、鑑賞者に距離を取らそうという一種の仕掛けなのです。



今回、僕が漠然と考えたのは、スポーツ鑑賞における美についてこの距離の側面から考えてみると面白いのではないか、ということです。



 まず、スポーツにおける美とはどのような美なのか、という問いに対する答えとしてよく言われる「機能美」について考えてみましょう。
 我々は得点や速度などの目的を追求する姿勢、形態に一種の美を感じます。
 上に挙げた「心理的距離」の考えかたをここに持ち込んだとき、我々は何から距離をとっているのでしょうか。
 ひとついえる事はそのとき我々は選手の「人間性」から距離をとっているということでしょう。
 WBCの際のイチローの内野安打におけるダッシュは一種の美であったといえるでしょう。
 しかしそこに美を感じるとき、そこでは彼の韓国に対する思い、苛立ちといった要素は切り離されていないでしょうか?
 我々はそこではもはや選手個人の人間性を見るのではなくその「動き」「フォーム」「速さ」を見ているのです。
(これもこんな簡単に言えるかちょっと疑問ですけど、とりあえずそういうもんとして先に進みます。
 でも「すぽると」でのカビラの「う〜つ〜く〜しぃ〜!!」という叫びを聞くとあながち間違ってもないのかなという気もします。)



 しかしまた現代の我々のスポーツ観戦は対象、すなわち「人間性」への没入をも要求します。
 現代のスポーツ中継を見直せばわかると思いますが、そこではもはや得点や速度といった選手の動きと結果とは別の様々な要素によって、番組は(まるでドラマ仕立てのように)我々を楽しませ、感動させます。
 スポーツの「ショー化」です。
 甲子園では選手の生い立ち、苦労話が次々と語られますし、オリンピックでも試合にかける選手の思いなどを解説者はことさらに引用します。
 このような「人間性」への没入へと誘う仕掛け、つまり対象との「距離」を縮めさせようとする仕掛けは、試合に試合の外部状況からもたらされるストーリーを付け加えます。
 そこでは単に選手の「動き」「フォーム」「速さ」のみを鑑賞する態度は、もはや冷めた態度として退けられるでしょう。



 しかしまた、それらの仕掛けが最大の効果を持つのは得点、速度といったスポーツの「結果」においてなのです。解説者、キャスターはその「結果」に様々なドラマ的要素を結びつけて我々を感動させようとします。
そこではスポーツはドラマとして「美しい」と形容されます。
(スポーツ観戦において興奮、涙するのはこのような仕掛けが大いに働いている場においてであるという意見については共感する方と共感しない方で分かれるかもしれません。
 なぜならそのような興奮、涙をむさ苦しいと嫌う方もいれば、それに感動する方々も多くいるという現状に鑑みるにそこに絶対的立場というものはありえないと思われるからです。
 しかし、一般的にスポーツの感動というものは、このような仕掛けによって「もたらされる」ものになっているということは言えるでしょう。)



 今、僕が注目しているところはスポーツ鑑賞の世界における「美しい」という言葉の位置です。
 「美しいパス」と言う評価と、キャスターが「美しい試合でしたねー」というセリフとを比べたとき、「美しい」という言葉が指す位相がすこしズレているのは確かです。
 そしてそこでは要求される鑑賞者の距離のとり方にも差が出てくるのです。
 そしてまた、そこでは「感動」「よろこび」という要素が「美しい」という言葉と入り混じって、言葉の使用法はどうも複雑化しています。*1
 そこのあたりの「距離」「美」「感動」「結果との関連性」「目的」といったいろんな要素を少し整理して考えたいなと思う今日この頃でした。




混乱してきたのでそろそろ寝るのだ。
簡単にまとめず、もーちょい考えよっと。
読んでくれた人どーもありがとう。
おやすみ。



芸術解釈学―ポール・リクールの主題による変奏 (北海道大学大学院文学研究科研究叢書) 美学の逆説 (ちくま学芸文庫) スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護

*1:蓮實重彦の文章では意図的にそれらの要素をクロスオーヴァーさせているのではないかとも思われます。