昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

飽きの現象学 2.5 飽きと作品の存在論に与える影響

●「飽きる」と「見なくなる」との違い。そのとき作品の存在論に違いは出るのか?また、飽きという認知的な要素が存在論に介入するなら、そのとき作品の存在論はどうなるだろうか?その存在論は非常にアドホックになるだろうか?
●たとえば、作品に飽きたときに作品の美的性質はどうなるだろう?もし飽きても作品の美的性質は変わらないという存在論をとるならば、その存在論では「飽きられた作品」という存在を規定することができなくなるのか?これは存在論的に問題はないのか?・・・


●正直、作品の存在論はまだあまり詳しくないので、ここでたいした考察はできない。
●ただ芸術作品の存在論に、「飽き」という認知的な要素を入れたとたんに客観性は成立しづらくなることは確かである。よって、このような存在論を立てることを嫌う人は多いだろう。
●とはいえ、別に飽きを自然化できないものと考える必要はない。ニューロンの発火様態、脳内物質の様子などで飽きを科学的にとらえることはできるだろう。別に美学に飽きを組み込むからといって、美的実在論と対立するわけではない。
●ただし、<美が意識を離れて外的に存在する>という美的実在論には私は与しない*1。美的実在論には私はそこまで詳しくないので、この議論にもこれ以上は踏み込まないが、ひとまず、ここで私の考えを述べておくならば、結局私は、美が意識の外で普遍的客観性として存在するものとは考えていないし、時代を超えて残り続けるものとも考えてない。美は意識のモードのひとつであり、意識を離れて外的に存在するものではない。単に、意識を美のモードに傾向づける対象が「美しい」と呼ばれているにすぎず、飽きられた作品はその人にとってはもはや美しいものではない。これが私の考えである(これは、そこまで特殊な立場ではないと思う)。美を飽きと対比的に考察することは、この考えの例証となるだろう。

*1:「善」はもしかしたら、外在的に規定できるものかもしれないが。