昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

「あえて○○する」という表現がもたらすイラつきについて

昨日あたりから「あえて○○する」という言葉につきまとう倫理的問題について考えてる。というか、その表現が何かイラッとさせることについて。
 おそらく「これからあえて○○しますね」という決意表明をすることには、そんなにイライラしない。たとえば、「後輩の○○くんの態度が最近アレなので、わたし今から、あえて怒ってきます」という言い方にはそこまでイライラしない。これから○○することで起こる責任を引き受ける覚悟があります、という宣言なら良い。
 問題は○○したあとで、「いやこれはあえてやってるんですよ」「あれはあえてやってたんですよ」というような弁明のようなしかたで「あえて」が使われる場合だ。「あえて怒ってるんだよ!?」とか言われると、これはイラッとする。
 おそらくいらいらさせる原因はいくつかある。第一に、「今あえて○○してるんですよ」「あえて○○してたんですよ」という現在進行形、過去形の表現には、跡付けの弁明っぽい響きがあり、これには責任逃れな感じがある。第二に、そしてこれは単に素でやってる(た)のではなく、私はもっと情況を見据えている(た)のですよ、というニュアンス。これはお前より情況をよりメタに見てるぞ、という上から目線の感じがある。


 「あえて怒ってたんですよ」と言うとき、怒ったことの責任は引き受けなくてもいいのか。「あえて」が弁明のように使われている以上、なんらかの釈明、弁明がなされているのだろう。だがその釈明、弁明はどのような責任から逃れることになるのか。これはけっこう難しい問題だ。
 「あえてやってました」という言葉には、あそこで表出していたように見える情動はフィクションでした、という含意があるのかもしれない。「あえて怒ってました」というとき、情動の面からすればそれは真正の怒りなのか。違うかもしれない。
 とはいえ「あえて怒る」というのと、「怒るふりをする」というのとでは、ちょっとニュアンスが違う気もする(英和辞典では「あえて」にpretending toという訳も出てくるが)。「あえて嫉妬する」というのはすこし変な気がする。嫉妬や悲嘆のような、どこか真摯さを伴う感情は、あえてできるものではないのではないのかもしれない。態度、行為は模倣できる。だが真摯な感情は「ふり」ができない。
 この違いには、上に挙げた「よりたくさんの事実を踏まえてますよ」というニュアンスが関係しているのかもしれない。「あえて○○する」と「たんに○○する」とでは、その行為の元になっている信念が異なる、いうのは真理だろう。だからこそ、「あえて」怒ってる人をなだめるためには、単に素で怒ってる人をなだめる時よりも、多くの点を考慮した、そして別の仕方の説明が必要だ。そしておそらく、素で怒ってるひとをなだめるためには、事実誤認などを指摘すれば良いが、あえて怒ってるひとをなだめるには、その人のモチベーションなどまで考慮しなきゃいけない。めんどくさい。
 「あえて○○してるんですよ」という言い方には、「お前ももっと多面的な事象を考慮しろ」という響きがあるからイラッとするのかもしれない。とりわけ、必要な事象を考慮することがめんどくさい場合、いや「あえてやってるんですよ」と言われてもなー、という忌避感がでる。「あえてやってるんですよ」と言われたとき、こちらには必ずしも、そこからさらに進んで「え、じゃあなんで?」と考えてあげる元気・善意があるわけではないのだ。考えてあげる義務もない。「あえてやってますよ系アート」がイラつく理由のひとつは、おそらくこれ。