昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

『分析美学入門』解説エントリ7、実際の意図主義への批判について

ひさびさの『分析美学入門』解説エントリです。前回のはこちら(なんと6年ぶりの解説だ!)。

 

 

『分析美学入門』第7章第4節「実際の意図主義に向けられるいくつかの批判」について、twitterで質問を受けて回答をしたので、記録がてらこちらにも転載しておきます。

難しいところなので、こんがらがってる人も多いでしょうから。

 

質問のやりとりは二往復しました。

 

一通目の回答

 

 質問ありがとうございます。第7章はかなり難しいところです。グライスの意味理論とかをある程度知ってないと、なんでこんな話をしてるのか、とかが分かりづらいと思います。この章は短い分量で意味論の基本的なところをガンガン導入していくので、その点では「入門」ではないんですよね、、、。

 

 以下、質問への回答です。

 

7章3節(p238中央)の、なんでも認める意図主義が抱えている〈発話状況において言われたこと〉と〈その状況においてその発話によって伝わったこと〉を区別できないという問題が、理解できませんでした。

 

 昇進の例はわかりづらいかもしれないですね。ヤクザの脅しの例とかのほうがいいかも。

 ヤクザが人を脅しながら「誠意見せろや!」と言うシーンを考えてみましょう。

  • 前者の〈言われたこと〉は「誠意見せろや」、
  • 後者の〈伝わったこと〉が(金払えや)

になると、ちょっとは理解できるでしょうか。

 

 脅されてる人は「誠意見せろや!」と言われて「ひぇぇ、お金払わないとー」と思いますよね(この時点で、ヤクザの意図は伝わっています)。

 でも何でも認める意図主義だと、ヤクザの発言の意味がストレートに「金払え」になってしまうので、ヤクザがなんでこんな回りくどい言い方をしているのかを説明できません。ヤクザは恐喝罪を逃れるために、「金払え」とは言わず、わざわざ回りくどい言い方をするわけですからね。警察に詰められると「いや、ワシは誠意見せろと言っただけで、金払えとは言ってないですよ」とヤクザは言い逃れをするわけです。この「金払え」と「誠意見せろや」の違いを説明できないと、意味の理論としてはちょっとまずいです。

 

 さらにもっとまずいのは、マラプロップ婦人のケースです。彼女はAと言おうとして「B」と言ってしまうわけですが、聞いている人には「ああ、彼女はAと言いたいんだな」と理解できることもあるわけです。(でも彼女の発言は「B」なので、言語慣習的にはAを意味していません。)

 何でも認める意図主義は、彼女の発言の意味をストレートにAとしてしまうので、まずいのです。

 

② そのため中間説(p239)が、なんでも認める意図主義の抱えている問題をなぜ避けられているのかもわかりません。言語慣習からあまりにも外れているもの、というのがなんでも認める意図主義の抱えている問題に当てはまるのでしょうか?

 

 中間説は、マラプロップ婦人のケースはあまりにも言語慣習から外れたケースとして扱えるので、何でも認める意図主義とはちがって大丈夫、というわけです。(ちなみにステッカーは、「では中間説では、マラプロップ婦人は何を意味しているのか」という点は説明してくれてないように思います)。

 

③ p243下から5行目、だからこそ中間説は〜主張したのだった。の部分がわかりません。

中間説は実現された意図の一部を選出する、というのはわかるのですが、それこそが作品の意味を決定すると言っていたのでしょうか?

p241の上段に、中央説は〈実際の意図は、意味を確定するいくつかの要素のうちのひとつに過ぎない〉と記載されていると思います。

2つを比べると、「いくつかの要素のうちのひとつ」と「それこそが作品の意味を決定する」が同じことに思えず理解できませんでした。

 

 

 ここの「それこそ」というのはちょっと訳すときのニュアンスが強すぎたかもしれません。

 原文は、The intermediate view selected a class of realized intentions and claimed that they are meaning-determining.

 「中間説はは実現された意図の一クラスを選別し、それが意味決定的だと主張した。」です。

 

 「こそ」というニュアンスを入れたのは、実際の意図を考慮しない立場との違いを強調するためだったのですが、誤解を招く訳だったかもしれません。ステッカーも明言しているように、現実の意図は意味決定の一要素であり、それのみで意味が決まるわけではありません。

 

 

④ 中間説への第二の反論、「作品の意味を決定するような意図を入手できたかどうかを、わたしたちは、いつ、いかにして知るのだろうか」という反論があるのはわかりました。

しかしその問いに対してありうる回答が、〈わたしたちは意図を理解し、作品の意味を理解し、そのあとで、両者がうまく適合するかを判定しなければならない。〉となるのはなぜなのでしょうか?

 

 ここはトリヴェディという人の論文が元になっているところです(トリヴェディの論文も分かりづらいんですが)。

 ちょっと精確に述べておくと、「作品の意味を決定するような意図を入手できたかどうかを、わたしたちは、いつ、いかにして知るのだろうか」というところは反論そのものではなく、反論を始めるためのスタートポイントとなる問いです。この問いに答えようとすると、二つの道がありうるけど、どっちの道もダメだよ(だからそもそも意図主義はダメなんだよ)、というのがトリヴェディの反論でした[1]

 トリヴェディが挙げるひとつめのありうる回答が、質問で挙げられている「意図を理解し、作品の意味を理解し、そのあとで、両者がうまく適合するかを判定」するという道です(適合してると判明すれば、意図は実現していることになります)。ただこの道を採用するには、意図や意味を独立に確定できなければいけない。それは無理よ、ということになります。(つまり、一つ目の道がダメになる)

 なお、トリヴェディは2つ目のありうる道もうまくいかない、と言っているのですが、ステッカーのその2つ目の道のところの説明(さらにいえば、トリヴェディが二つ目の道がなぜダメだと言っているのか、の説明)があまりよくないので、訳注を付けました。

 

⑤ 第三の反論、p248の上段9行目の「つまり、意図への言及を削除することは、可能なのだ。」という文が理解できませんでした。削除可能というのがあまりピンときていません。暗に訴える必要はないと同じ意味で捉えて良いのでしょうか?

 

 原文はReference to intentions can be eliminated.

 「eliminate」のニュアンスがちょっと伝わりづらかったかもしれません。これは、意味理論の中に意図の要素を入れる必要はない(排除してOK)ということです。

 この第3の反論の立場は「意図への参照・言及はまったくやらずに意味理論はやっていける」「言語慣習と文脈だけでOK」、というものです。

 他方、ステッカーの穏健な意図主義(中間説)は「現実の意図が必要になることはある(なので意味理論から現実の意図の要素を削除してしまってはだめ)」という立場ですね。

 

[1] ジレンマをつきつける、というのは哲学ではよくある反論のやりかたです。「お前の主張を採用すると、こっちかあっちかどちらかの道に行かなきゃいけないんだけど、どっちもダメになるぞ」というやり口ですね。

 

 

二通目の回答

 

どもども。理解が進んでいるようで、何よりです。

質問は大きく二つですかね。

 

①〈言われたこと〉と〈伝わったこと〉の区別ができないことの何が問題なのか。

 

 これはいろいろと答え方はあるとは思うんですが、ステッカーは、わたしたちは現にその「違いに、関心を向けることがある」(p.238)とはっきり言ってますね。ヤクザのケースは、まさにそういうケースなのでは?

 やや一般論としていえば、「ふたつ要素の違いを考える」という実践が現にあるのであれば、その違いがあることを説明できない理論はダメだと思います。

 

 

②皮肉とヤクザの例は何が違うのか。

 

 「皮肉」というのは、意味理論のどの立場をとるにせよ、説明しなきゃいけないひとつのハードルです。逆に言うと、皮肉もろくに説明できない意味理論は全然ダメ、という感じですね。

 

 皮肉の例とヤクザの例は、実は微妙にポイントが違います。以下それを説明しましょう。

 

 皮肉の中でも、この章で特に問題になっているのは、言葉上はまったく逆のことをいう皮肉です。「感動的なほどの思いやり」みたいなのはまさにそのケース。本来言いたいこととは逆の表現を使ってますよね。

 真逆の表現を出してくる皮肉は、言語慣習を多少拡張するだけでは説明できません(たとえば、どれだけ詳しい辞書であっても、その用法は載りません)。この種の皮肉がどういう意味かは、発話の文脈を見なければ絶対にわからない。だから「意図主義を言語慣習で制約して、意図さえすれば何でもありの強い意図主義から弱めよう」という【慣習に制約された意図主義】では、この種の皮肉は説明できません。

 

 ヤクザの例(つまり「誠意見せろや」が「金払え」のニュアンスを出すケース)は、慣習的意味から完全に外れているかどうかは微妙なところです。「誠意」は「金」と若干似ているので、「言語慣習の拡張」という点からまだ説明可能かもしれないんですね(下手したらスラング辞書くらいには載るかも。「誠意を見せろ」は「金を払え」を意味する、みたいな)。

 

 なので、皮肉の例とヤクザの例は微妙にポイントが違います。

 

 このヤクザの例(&上司の説明)で言いたいことのポイントは、「言語慣習的にその言葉が意味すること」と「その文脈で伝わる意図」との違いをきちんと説明できなければダメだよ、という点です。「伝わる意図」にすべてを回収してしまう【伝わりさえすれば何でも認める意図主義】はそれができないからダメだ、という話ですね。

 他方、【慣習に制約された意図主義】は、前者の方にすべて回収してしまうので、ダメということになります。

 

 この二つ説の中間地点のような立場はないか?、、、そこで中間説ですよ、と話は進むわけです。

 ただ、ここでいきなりステッカーはグライスの意味理論に似た、

 1.意図があって、

 2,その意図を聞き手が理解してくれるだろうと考えていて、

 3,さらにその意図も理解可能で、

みたいな数段構えの理論をいきなり出してきます。この提案はかなり唐突で、あまりよくない。ステッカーはその直後に、この説の利点をいろいろと語ってはいますが、なぜそもそもこのようなグライスっぽい形の理論がいきなり出てくるのか、という点はほとんど説明してくれません(さらに悪いことにグライスっぽい形の理論を出しておきながら、グライスにはまったく触れていない)。これは、この章の中でも最も不親切な部分だと思います。少なくともグライスの理論を少し紹介して、グライスとどこが同じでどこが違うのかは説明してほしいところです。

 この中間説の提案の唐突感は、この章が「入門的」ではない章になっているひとつの理由だと思います。

 

 あと、読み直していて、やや訳に問題があるな、と感じたところがあるので、訳を訂正しておきます。貴重な読み直しの機会になりました。ありがとうございます。

 

238ページ、上から3行目

【誤】この説にしたがえば、意図が実現されるのはその意図が伝達されたときだ

【正】この立場では、意図が実現されるのはその意図を伝えることができたときだ

 

238ページ、下から4行目

【誤】語の慣習的意味に反して何かが伝わってしまうようなケース

【正】語の慣習的意味に反して何かを伝えることができるようなケース

 

239ページ、真ん中あたり、

【誤】〈この発話は伝えきれたことすべてを意味している〉と言えるかどうかは定かではない。

【正】〈この発話は伝えることができたことを意味している〉ということになるわけではない。

※上記3点の訂正は、manage to のニュアンスをもうすこし含めるためです。

 

 

回答は以上です。

 

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