昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

『分析美学入門』解説エントリ6、理想的観賞者について考える意義

前回のエントリのあと、また次のようなメールを頂きました。

東北大学で美学の勉強会をやっております、●●*1です。
先日は理想的鑑賞者について素晴らしいお返事をいただき、まことにありがとうございました。勉強会一同に代わり、あらためてお礼申し上げます。

さて昨日勉強会があり、全員、森さんからのお返事に納得しておりました。
が、ひとつ、気になる質問が出まして、森さんなら何とお答えになられるかと湧き出る興味を抑えられず、再びメールしてしまいました次第です。立て続けに申し訳ございません。
その質問とは、現実の人間がなりえない理想的鑑賞者について議論する意義がわからない、というものです。この質問は、哲学専攻ではなく西洋美術史専攻の院生さんからいただきました。
もし宜しければお手すきの際にご教示いただければ幸いです。何卒宜しくお願い申し上げます。

だんだん『分析美学入門』本文からは外れた議論になってきてますが、記録がてらこちらにも回答を載せておきます。
またメールコピペエントリです*2


以下わたしの回答です。


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「現実の人間がなりえない理想的鑑賞者について議論する意義」というのは、色々考えたくなる興味深い問題ですね。
「哲学的に興味深いphilosophically interesting」とは、まさにこういうところで使うべき言葉だと思います。
わたしもそんなにはっきり自分の考えを作り上げているわけではないのですが、ちょっと頑張って回答してみます。
(以下のことは、あくまで私なりに考えたことですので、まぁ話半分で聞いてください。)


はじめに言っておきたいのは、おそらくここでも、想定されている理想的観賞者がどのような存在者かを分けて考えたほうがいいだろう、という点です。
というのも、どういう理想的観賞者を想定するかで、それを持ち出す意味合いや、そのような存在者を想定することの帰結も変わってくるだろうからです。


ケース1:「しかじかの(望ましい)能力を持っている存在」
はじめに、理想的観賞者を「しかじかの(望ましい)能力を持っている存在」として考えるケースを考えてみましょう。
前回お話した「ボトムアップ型」のようなしかたで規定される理想的観賞者です。


このような観賞者は、他人の観賞を批判するとき、また、自分の観賞の落ち度を考えるとき、などに役立ちます。
「この能力があったら、よりよい観賞ができるだろう」と想定することで、自分や他人の観賞の悪い点、改善点が想像的に把握できるのですね。
たとえば「もし仮にもっと6-70年代のアメリカ社会に詳しかったら、ポップ・アートをより楽しめるだろう」とか、
「もし仮に戦国武将の人間関係についてもっと詳しく知っていたら、戦記モノの時代小説をより楽しめるだろう」といったことを、われわれは日常会話の中でよく言っています。
そういう時には、(神様のような存在者ではないにせよ)ある種の理想的観賞者の想定が行われているのではないでしょうか。
他の人と観賞経験について議論するときにも、こういう存在者を想定することが役に立つことがあります。
「キミは映画たくさん見てるけど、もし仮に僕みたいに美術史について詳しい知識を持っていたら、より映画を楽しめるだろうね」といったような感じです。
この場合、現実世界では、僕も相手も、映画と美術史の両方でエキスパートではないわけです。ですが、その両方の能力をもし仮に備えていたらよりよい観賞ができるだろうな、という反事実条件文のような想定が行われているわけです。


もちろんこれには、極端に懐疑的な立場からの反論もありえます。
「別の能力をプラスされたときに観賞がどう変化するかわからないじゃないか、より悪い観賞になるかもしれないじゃないか」という反論です。反事実的な想定は必ずしも真とはいえないだろう、という批判ですね。
わたしは、この反論はそれなりにもっともな反論だと思います。
ただ、そこまで懐疑的になる必要もない気もします。
われわれは日常的によくこうした反事実的な想定を行って行動を決めているし、そこまで全ての反事実的想定が間違っているわけではないのですね。むしろたいていの想定は正しい方向を示してくれます。
ルネサンス期の作品をより楽しめるだろうから、イタリア史を勉強をしよう」という考えは、ごくまっとうな判断のように思えます。
まぁわたしが言いたいのは、「理想的観賞者について考えることはそう突飛な妄想でもないし、日常的に行われているて、それなりに役に立っている思考法だろう」ということです。


ただひとつ懸念もあります。このような理想的観賞者を想定すると、「われわれが日常的にやっている観賞はおおむねどこかしら間違っている」という帰結を受け入れざるを得ないのです。
人によっては、これは嫌だな、と言うかも知れません。
ただわたしとしては、この帰結はしょうがないし、むしろ芸術実践にそぐうものではないか、と最近は考えています。
たとえば、われわれは良い芸術作品を「汲み尽くしがたいもの」「いくらでも発見があるもの」だとよく言います。これは、われわれの普段の観賞がどこかしらに落ち度があるからだ、とも言えるのではないでしょうか。だからこそわれわれは着眼点を変えたり、別の知識を動員したりして、繰り返し作品に向かうのでしょう。
この「落ち度」は、そう極端なものではないかぎりあからさまに批判されることはないですし、われわれのやっている観賞の大半は「それなりにまとも」な観賞なのですが、それでもやはり理想的観賞と比べると、どこかしら欠点を抱えているのです。



ケース2:しかじかの条件のもとで、云々の判断を下すであろう存在者
ここまで述べてきた理想的観賞者は、われわれが目指すべき方向性を示してくれる存在者ともいえます。
このようあn理想的観賞者を考えることで、「よりよい観賞があるよ」と規範的に言うことができるようになります。
次に、これとはまた違うかたちで役に立つ理想的観賞者について見てみましょう。


「しかじかの条件のもとで、云々の判断を下すであろう存在」という点から、理想的観賞者を考えてみます。こっちは「どういう能力をもっているか」という点からではなく「どういう判断をするか」という点から規定される「トップダウン型」の理想的観賞者です。


この理想的観賞者は、決定的な好みの違いを考える際に役に立ちます。
自分と同じような知識を持ち、自分と同じような環境で育ったにも関わらず、価値判断が全く違う人を考えてみましょう。
このような違いが典型的に現れるのは、料理の味の好みが分かれる場面です。
味の好みには、ある面で、このようなどうしようもない違いがあります(もちろんその一方で、生物学的にある程度方向付けられた「好み」がある、という点も重要なのですが)。
これは、欠点や改善点を示すことができない違い、つまり、どちらからも相手を批判できない違いと言えます。


こういう「批判しがたい好みの違い」は、味以外にも、たくさんあります。
「顔の好み」や「色の好み」もあれば、「蛮勇な人が好きか、冷静な人が好きか」もこの一種と言えるかもしれません。


こういう自分とは違う好みの人の観賞を理解するには、そういう人の観賞を想像するしかありません。
私はチョコレートが嫌いですが、チョコレート好きの人の楽しみを想像することはできますね。
ここで私は、自分とは違う価値観を持つ観賞者、を想定するわけです。


チョコレートのケースだと、美味しさや甘さといった点で「好きであったほうがより楽しみが増すだろう」と言えそうですから、
たいてい「チョコ好き派」は「チョコ嫌い派」を批判しがちです(わたしもよく「チョコ嫌いなんて人生損してる」と言われます)。
ただこれが「顔の好み」や「色の好み」だとどうでしょう?
「赤より青が好きだなんて不幸だ」とかあまり言いませんよね。
吉高由里子より蒼井優が好きだなんて人生損してる」ともあまり言いません。


私は最近では、こういう「一方からもう一方への規範性が明白に存在するわけではない価値判断の違い」について考えるさいにも、ある種の理想的観賞者説は役に立つのではないか、と考えています。
この理想的観賞者は、「好みの違い」を許容します。このような理想的観賞者たちの間では、価値判断が分かれるわけです。


もちろん、芸術について議論するさいなどは、「好みが違うよね!」で終わらせる議論はあまり生産的ではありませんから、できるかぎり、「ケース1」のような理想的観賞者を想定しつつ、判断の違いがどこに起因しているのかをお互いに協力して探るほうが、良い結果につながりがちです。
ただ、この「ケース2」のような理想的観賞者を持ちだしてくることも、たまには役に立ちます。
「オレの彼女とオマエの彼女で、どっちのほうが可愛いか」みたいな議論をするときなどがそうですね。


こういう存在者を「理想的」と呼ぶ必要はないのではないか、という批判はありえます。言葉遣いが気に入らなければ「仮想的観賞者」と呼んでもいいかもしれません。
いずれにせよポイントは、現実にはいない観賞者を想定することが議論の役に立つことはある、という点です。



以上です。
うまく回答できているかわかりませんが、最近はこんな感じで考えていますというお話でした。


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メールでの回答は以上です。
自分でも最近まだ勉強中の議論なので、詳しい人だったらまた別の、もっと上手い回答をしてくれると思います。
なにかアドバイスあったら、頂きたいです。



では。

*1:本人の希望により伏せ字

*2:手抜きですが、博士論文じゃないのでコピペでもいいのです