昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

イメージそれ自体に権利はあるのか。

表象文化論学会、秋の研究大会に行って来ました。
ちょっと色々考えたことを。また長いです。



シンポジウムで、「イメージの権利」とかいうのが話題になってた(http://www.repre.org/conventions/7_1/1_3/)。
学会シンポジウムにありがちな、もやっとしたテーマである。


いろいろ議題は多岐にわたってて面白いシンポだったし、大変勉強になった(、とりわけ加治屋先生の話はとても楽しかったし、翻訳につながる良い知識も得られた)のだが、途中から「イメージそれ自体がもつ権利」というのが議論になってた。今日は、これについてちょっと考えたことを書きたいと思う。
あらかじめ言っときますが、別に特定の誰かをdisってるわけではないです。
あくまで思考整理が主眼であります。


さて、
そもそも、モノそのものが持つ権利って、何よ?という気もするが、今日はそこまで話を広げずに、「イメージ」に話をしぼって議論しよう。
このことを考えるためには、まずイメージと言う存在がどのようなものなのかを規定せねばならない。正直、今日のシンポでは、あまりその辺ちゃんと定義されてなかったので、議論が横滑りしまくってたように思う。(森元さんはゆるい定義出してた気もするが、もう忘れてしまった。すいません。でも、あまり議論に効いてくるような定義ではなかったように思う。そもそも森元さんの話は、あまりイメージという言葉でひとくくりにできるような話ではなかったのでしょうがないのだ。森元さんは悪くない。)


ひとまず、A.作者がはっきり同定されているイメージと、B.作者不明の人工イメージ、C.自然物としてのイメージ、の三つに議論を分けてみよう*1。メンタルイメージについては、考察から省く。そんなものにまで権利があるという話はもうよくわからないし、それは単に「思考の自由」「言論・表現の自由」とかの話なのではないかという気もする*2。今回はとりあえず、客観的事物としてのイメージに話を限定する。主に念頭に置かれているのは、絵画や映画、小説などの芸術作品といってよいだろう。
(一応述べておくと、所有権、複製権、販売権などは人や団体がもつ権利なので、別のレベルで議論すべき事柄だと考えてます)。
そのあとで、そのイメージ自体にどのような権利が付与されうるのかを考えてみる。



だがそのまえにひとつ押さえておかねばならないことがある。「権利」とは、度合い関係で言われるものではない、ということだ。あるていど権利をもつとか、すこしだけ権利をもつ、とかではないのだ。せいぜい、権利があるときに、場合によって、それが行使されたり行使されなかったりするだけだ。
もうひとつ重要なのは、とりわけ自然物のような意図も感覚ももたないような存在に権利が付与される場合には気をつけねばならないことだが、その権利は恣意的な基準で侵害されてはならない、ということだ。シンガーの生命倫理の話を思い出そう。たとえばごくごく話を単純化して、倫理適用の基準を「痛みを感じるかどうか」という点におくと、そこから出てくる帰結は、かなり「いかなる可感的な生物をも、われわれは傷つけてはならない」ということになる。育ててやったの俺だから殺してOKとか、下等生物だからOKとか言えないのだ。
また、環境倫理の分野では、あらゆる自然物に「破壊されない権利」を付与しようとする極端な立場もあるが、これも一貫した理論にするにはかなり厄介な立場。個人的には、こうしたデメリットへの目配せもなしに、権利の議論に踏み込むべきではないと思っているのだが、正直私自身あまり権利論については詳しくないので、別な考え方もあるのかもしれない。ともかく、以下の議論は、このような単純な権利概念を前提に、ごく素朴な視点からなされていることをご承知おき頂きたい。
あくまで目的は、現時点での思考整理である。



検討すべき問題はこれだ。
イメージそれ自体は権利を持つのだろうか?
イメージそれ自体にわれわれは権利を付与すべきだろうか?



A.作者がはっきり同定されているイメージのケース
ではまず一つ目のケース、作者がはっきり同定されているイメージから考えてみよう。
作者と結びついたイメージには、どのような権利が付与されるのだろうか。
以下、今日のシンポの議論から汲み取れたかぎりで、いくつかの候補を挙げてみよう。


A-1. 自由に提示される権利:
はっきりいえば、イメージそれ自体にこんな権利を与えたら、とんでもないことになる。われわれはすべてのプライベートな写真を公開せねばならないのか?たとえ公開しないにせよ、われわれはその非公開にすることに罪悪感を抱えなければならないのか?繰り返すが、場当たり的な条件を設定して、ある時だけ(たとえば評価が高いときにだけ)その権利を侵害していい、とする立場は一貫性に欠けるという批判を免れ得ない。
そして場当たり的に、都合のいい時にだけ「そのイメージには公開される権利がある!」と言っても、他人を動かすのにはあまり説得力はないだろう。公開の自由は、作者・管理者にあると考えるのがもっともだし、また肖像権やプライバシーの権利など、ほかの多くの権利によって決まってくることがらだ。ここでことさら「イメージの権利」を言い立てる意味はないし、逆に、無駄な問題がわんさか出てくるだけだ。


A-2.破壊されない権利:
これも厳しい。撮りそこねた写真を捨ててはならないというのか?いたずら書きの似顔絵はゴミとして捨ててはいけないのか?「部屋にスペースがなくなった時には捨ててもいい」なんて理由で侵害される権利は、そもそも権利などと呼ぶべきではないし、たとえ権利だとしても、そんなもの設定する意味はない。


A-3. 尊重される権利:
これもとんでもない帰結が出てくるし、もう飽きたのでそろそろ次のケースに行こう。



B.作者不明の人工イメージのケース

B-2,3破壊されない権利と尊重される権利
これらについては、もういいだろう。そんなもの権利として認めたら、われわれの生活は非常に息苦しい(狭苦しい)ものになってしまう。


B-1. 自由に提示される権利
ここが一番議論可能で、面白いところかもしれない。たいていのイメージは、自由に提示されているので問題にならないと思うが、保持・保護している者が提示するかどうかを決めているケースもあるだろう。宗教的に開示されてない像や、国家機密文書など、隠されているイメージもある。だがこれらのケースも、そのイメージが提示されるかどうかは、実質的には、財産所有権・複製権など別の権利によって決まる問題だ。こうした理由で隠されている作品を「イメージには自由に提示される権利がある」という主張によって開示させることができるのだろうか。正直こんな議論でひっくり返せるような話ではないと思うし、かりにそう主張するとしたら、そのひとは「なぜこのイメージにだけそのような権利を主張するのですか?」と言い返されるだろう。画像を自由に見たいのであれば、ほかの利害関係を理由に戦った方がいいのではないか。
だがここでもう少し踏みとどまって、「イメージそれ自体」の権利を言い立てると、何か面白い話題が出てくるのかもしれない。だがその議論が、「権利」という語を使わずに出来る議論なのであれば、「権利」という語は使わない方がいい。無駄な誤解を招くだけだ。


C.自然物としてのイメージのケース

C-1,2,3.
これについてはどのような権利も認めるべきではない。認める意味がないし、認める根拠もよくわからない。下着に偶然できた変なシミを尊重し公開したい人は、がんばって主張してみてください。あまり勝ち目ないと思う。




まとめ


結局、「イメージの権利」という言葉を使いたがっているひとの気持ちを好意的に汲んであげると、「良い芸術作品は尊重されるべき」「作品は作者を離れて流通しだすようになってきた」「自分勝手に扱ってはならない作品もある」「著作権を強く主張しすぎて作品使用が不自由になるのは嫌だ」といったことなんじゃないか、という気がする。
それならそれで、作者・権利保持者の権利と対抗可能な別の権利、たとえば公共の福祉や、文化的生活の享受とか(学問的使用もこれに理由づけ可能だろう)で戦ったほうがいいんじゃないか。よっぽどまともな戦術だと思うが。
また、良い芸術作品は尊重すべきだ、と言いたいのなら、イメージの権利とか言わずに、まずは良い作品と悪い作品を区別する基準を用意すべきだし、そこから「良いイメージにはしかじかの権利がある」とかいう話をしたいのであれば、それはもう、われわれの芸術制度、文化制度などから由来する尊重感情・義務感情などで十分説明できるだろう。芸術作品を破壊する人を責めるために、芸術制度に由来するこれらの感情はあるていど機能している。(もちろん、芸術制度を共有しない文化のひとについては別な議論が必要となる。バーミヤン仏像破壊のケースとか。でもあれを批判するために「イメージそれ自体がもつ権利」に訴えるのは、あまり説得的ではないと思う。)
結局、奇妙な帰結をもたすことになる「権利概念」にわざわざ訴える必要はないし、自己撞着の危険性を増やすだけだ。正直もっと言えば、「イメージの権利」とか言う前に、英語圏の美学で言われているAesthetic Obligationの議論をちゃんと紹介すべきだと思う。つまり、芸術に対する義務や尊重はどこに由来していて、どのような内実をもっているのか、という議論のほうが、よっぽど意味ある議論になりそうな気がするのですね。


はい。

いろいろ書きましたが、要は、「イメージの権利」という言葉で主張したいことは、別の言葉でもっと綺麗に表現できるし、逆に下手に「権利」とか言い出すと問題がたくさん出てくるよ、という話でした *3
とりわけ、もし、(仮にですよ)、ここから著作権問題のような社会的制度に向けて何か訴えようとするのであれば、「イメージの権利」という言葉をつかうメリットをもうすこし丁寧に説明しないかぎり、主張の帰結などを考慮しない薄っぺらい話に終わりそうな気がします*4



もうすこしチャリタブルな態度で行けば、もっといろいろ興味深い話しできるかもしれませんが、とりあえず今日はこんなところで。


*1:今日のパネルでは、このあたりの区別がちゃんとなされていたかも怪しいのだが。表象文化論のひとたちによくあることだが、それがどういう存在論にのっとった話なのかを、あまりちゃんと話してくれない。作品の存在論あたりの議論をそもそも気にかけていないんじゃないか、とたまに不安にもなる。あと価値論と存在論と意味論をすぐ混同しがち。作者殺すのもいいけど、存在論でも作者消しちゃうんですか?と訪ねたいシーンが多すぎる。

*2:もし共有可能な思考・感情に権利を付与したいというのであれば、ちょっとまた話は複雑になるが、以下の議論をちょっと拡張すればすぐに退けられそうな主張だと思う。

*3:デメリットとかあまり考えてなくて、とりあえずキャッチーな言葉なんで使ってみました、ということであれば、もうこんな言葉使うのやめたほうがいいと思う。他分野のひとに馬鹿にされるだけですよ。

*4:とはいえ、社会制度をひっくり返すことのできそうな強力で厳密な議論がほんとうにここから出てくるのであれば、それは最高に面白い話なのですが。なにか思いもつかなかったような「権利」が出てくるかもしれませんし。ただ、今日はあんまそんな印象は受けませんでした。あとは、ユベルマンとかそのへんちゃんと追いかけてる人が、もっと深い話をしてくれると思うので、複雑な話はそちらに任せます。