昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

美学会全国大会での発表原稿をupしておきます。

先の10月に美学会早稲田大学で「芸術作品のカテゴリーと作者性――2015年VOCA展の出品拒否事件を題材に」というタイトルで発表しました。

後日提出した発表の要旨は次のようなものです*1

「芸術作品のカテゴリーと作者性――2015年VOCA展の出品拒否事件を題材に」
森功
Norihide Mori
東京大学


 本発表では、2015年のVOCA展の裏側で起こった出品拒否事件を題材に、芸術作品のカテゴリーと作者性(authorship)との関係を考察した。
平面作品の展覧会として知られるVOCA展において、アーティストの奥村雄樹が会田誠に絵を描いてもらって出品しようとしたところ、実行委員会側から出品を拒否された。奥村は二つの案を提示したが、第一の案は〈依頼行為は「平面作品」ではない〉という理由で拒否され、また、最終産物の「絵」に焦点を当てた第二案も、〈平面作品ではあるが奥村のみの作品とは言いがたいため「倫理的な問題がある」〉として拒否された。しかしこの一連の拒否の一方で、委員会は奥村の行為をコンセプチュアル・アートとしては認めていた。つまり今回の作品について委員会は、【奥村のコンセプチュアル・アートである】が【奥村のみの平面作品ではない】という判断を下したのである。
 さらに、今回の事態をいっそう哲学的に興味深いものにしているのは、奥村が2012年のVOCA展に、幼い子供に体内の内臓を想像させて絵を描かせるという手法の作品を出品していた、という事実である。この作品は、「他人に依頼して平面画像を制作させる」という点では2015年に拒否された作品となんら変わりはない。だがこの2012年の作品は、奥村の平面作品として出品を認められていたのである。2012年に出品できた作品と2015年に拒否された二つの作品とでは、何が異なるのだろうか? われわれは作品の作者とカテゴリーを、いかなる条件で決定しているのだろうか?
 本発表ではまず、今回の事件の問題点を整理したうえで、Mag Udihirの共同制作論を援用し、共作でないケース(アプロプリエーション、依頼)と共作が成立するケース(コラボレーション)との違いを明確化した。さらにその議論をWaltonが提示した「芸術のカテゴリー」の概念と結びつけつつ、作者の特定は〈当該作品を特定のカテゴリーに置くこと〉と〈作品記述をつうじて作品の芸術的達成を特定すること〉に結びついていることを示した。この考察によって、2012年の作品は奥村個人の平面作品であるのに対し、2015年の作品は平面作品としては奥村のみの作品ではない、という点が明らかになる。
 最後に本発表では、今回の事件に潜む倫理的問題を考察し、われわれの社会に次の通念があることを指摘した。

  • 作者の達成責任を限定する原理:作品制作に複数の者が関わっている場合、あるカテゴリーにおいて一方の者に芸術的達成の責任を認めると、同一カテゴリーにおいて別の者のみに作者性を付与することはできない。

 会田誠の「絵」を奥村雄樹の「絵」として出品できなかったことの背景には、この原理がある。またこの原理は、アプロプリエーション・アートに課されているひとつの限定を示してもいる。アプロプリエーション・アートは元作品のカテゴリーと別のカテゴリーとして提示されないかぎり、贋作に似た倫理的問題を引き起こすのである。


じつは発表後に、ネタ元の奥村雄樹さんとメール上でいくつかディスカッションをしてました。そのディスカッションが、今回のVOCA展での奥村さんの狙いや作品観などがよく分かる有益なディスカッションになってましたので、「どうせならこのやりとり公開しましょうかー」という話になりました。ということで、最初の発表原稿をResearchmapのほうにupしておきます(まだ論文化できてない発表原稿段階のものですけど*2)。

森 功次 - 資料公開 - researchmap


今後、何らかの形で奥村さんとのやり取りを公開していく予定です。



では。


*1:この要旨は今度出る美学会の学術雑誌『美学』に載ります。

*2:『美学』に投稿するには文字数多いので紀要にでも投稿しようかなー、とぼんやり考えていたんですが、他の仕事に追われてバタバタしている間に投稿の締め切りを逃してしまってました。まぁこれをどうやって論文化するかはもう少し考えます。