昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

オルタナ音楽と音源との関係。飽きの美学。

accidentsの音源を聴きながら、ハードコア、オルタナアヴァンギャルドといわれる音楽群と、その音源との関係についていくつか考える。
 音源は「聴き込む」という行為を可能にする。聴き込めば次第に見えてくる良さがあるのはどのようなジャンルでも同じだが、抽象的爆音バンド、いわゆるノイズ調の音楽は、より音源によって気付かされる部分が多いように思われる。彼らの音楽は、絵画で例えれば抽象画のようなものであって、アーティストが何をやりたいのかが、ぱっと聴く限り、素朴にはよく分からん作品なのである。ただし、単なるコンセプチュアルアートではないから、アーティストの狙いを言語で理解すれば済むような作品でもない。作品を体験しそこに没入することで見えてくるもの、感じられるものが確かにある。そういう作品だ。
 彼らの音楽はキャッチーではない。メロディーもないしリズムも複雑だから、理解しづらい。それを安易に、「轟音・爆音」だとか「奇妙な音」だとか「変拍子」だとかのカテゴリーで括るのは簡単だ。だが、そこを越えてバンドの独自性を認識しようとすると、それは一発では(とりわけライブで一回聴くだけでは)わかりづらい。
 ここで音源が重要になるのではないか、というのが今回のテーマ。より明確に言うと、ポイントは「音源によって聞き取れない音を発見し、複雑なリズムを認識することが可能になる」という点にある。このような音源の利点は、キャッチーな良曲のバンドよりも抽象的爆音バンドのほうがより多く享受できるだろう。これは歌物バンドの音源に特徴的な「曲を覚えさせ、カラオケに役立つ」という利点とはまた別の利点である。
 要約すると、轟音で音がはっきりと聞き取れないバンドの独自性は、音源で何度も聞き込むことでよりはっきりと理解できる(というより聞きとれる)のであって、単純にライブだけ見て嫌いに鳴るのはもったいないねという自己反省的なお話。(この辺の音楽と音源の関係について詳しく知りたい人は、Mark Katzの『Capturing Sound』読むといいですよ。面白いから。)

Capturing Sound – How Technology Has Changed Music (Roth Family Foundation Music in America Book)Capturing Sound – How Technology Has Changed Music (Roth Family Foundation Music in America Book)
M Katz

by G-Tools
 この体験を通して、再度、彼らのライブを見ると、ライブで一回聴くだけでは分からなかった面白さが分かるようになる。別に、「音源どおりライブやれよ」とか、「ライブでもちゃんときれいな音出せ」とか言いたいわけではない。ライブにはライブの美学があってよろしい。ただ、変態バンドも、音源を聞き込んでライブに行くと別の面白みが見えてくるなぁと、そしてとりわけその楽しみ方は、歌物バンドのライブ前に曲を覚えていくのとはまた違ったものであるなぁと思ったのである。


 ここからより枠を拡げれば、「作品と媒体への固定・メディア化、そしてその体験への影響」という壮大な話ができる。ただしこの点を考えるには、各芸術ジャンルの受用のされ方の差をしっかり認識しておく必要があるだろう。例えば小説は音楽のように繰り返し体験されるものではないが、音楽と違って数行前に「戻る」ことができる、などなど。論じるべきことは多い。
 こういった観点の中で、現在俺がもっとも興味がある問題が、「聞き込む・読み込むとは何か?」である。そしてこの問題は「飽きるとは何か?」という問題へとつながる。ある音楽が聞き込めば聞き込むほど良く鑑賞されるということは実感として理解できるが、聞き込みすぎるとまた、飽きてくるというのも事実であるからだ。聞き込んで良くなることと、聞き込んで飽きることは、それぞれ別のファクターが働いているだろう。音楽を聞き込むことは、メロディやリズム構成を記憶させ、鑑賞の中で次を予測できるようになるといった効果につながる。一方、飽きは刺激への慣れ、疲れなどから来る。



 前々から主張していることだが、美学は(本来の「感性学aesthetica」という観点からすれば)そろそろ「飽きる」という現象について考察すべきだ。美や芸術を「完全であり普遍的であり飽きることはないもの」と定義づけるのは簡単だが、実際には我々は作品を見続けると疲れるし、飽きる。だからこそ我々は別の作品を求めるのである。(以前、先輩のYさんに聞いた話だが、記憶障害者は同じギャグで永遠に笑えるらしい。これはある意味では幸せだ。労せず快楽を得続けられるのだから。それに比べると普通の人は「飽きる」という本性をもった不幸な存在であるとも言える。)


 思いつきでいくつか書いておこう。
 飽きるということは、生物学的観点からすると、先ほど書いたように、「刺激への慣れ」や「疲れ」という形で説明できる。(英語では「疲れ」と「飽き」が同じtiredという単語で表される。ただしtired ofとtired fromの使い分けはあるが。)同一の刺激を与えられ続けると、その刺激の認識は次第に薄れるというのは生物学的に実証済み。だが、作品に飽きるということとは、刺激に慣れることで説明されるのか?よくわからない。佐々木正悟『「ロボット」心理学』は、この刺激への慣れと飽きとを考える上で興味深い。

 また、私感ではあるが、歴史的にみて「飽き」は様式変動の一種の原動力になっていると思う。ある様式に飽きるから人は別のものを求め、その多数の飽き飽きした心をよりキャッチしたものが次の様式となったのではないかと。ゴシックからルネサンスへ。写実主義から印象派へ。まぁこの実証は難しいし、適当だから話半分でよろしく。


 ただ、はっきりといえるのは、現代においてこそ「飽きる」という現象は考えられねばならない、ということだ。なぜなら、代替の作品が次から次へと量産される現代だからこそ、飽きるということがよりはっきりと認識されるからだ。たくさんの作品に触れることが出来ない場合、他に心移りができないから、現状のもので我慢するしかない。昔の人は同じ巻物を繰り返し読んだ。だが、現代は世の中には作品が溢れており、「飽きたー!はい、次!」と簡単に言える時代なのだ。ビジネスの領域においても、(とりわけエンターテイメントビジネスにおいて)「飽きる」という要素を如何に計算するかは重要だろう。ブームは飽きられるのが世の鉄則。(ホントかどうかは俺は知らないが、以前、美術史の友人に聞いたところ、「古い文献の中には、『もうこの作品に飽きました』なんて記述はあまり無いんじゃないか」と言っていた。なぜでしょうね?)
 そうだ!飽きるというのは現代に特徴的な現象なのだ!大量の作品を観ることができる今こそ、「飽きる」について考えるべきではないか!(と、アジテーション気味に書くが、結構真面目。)
 さらに、どれだけ「正しいもの」であっても、どれだけ「善いもの」であっても、我々は飽きる。そのことを考えれば、これこそ哲学でも倫理学でもなく、美学的な問題なのだ!






以上、実家で暇だから書いた。
美的体験と倦怠の問題については、そのうち手をつけるつもり。
「ロボット」心理学