昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

修論!!

つっても俺の修論じゃなくて
大学の先輩の米粒さんの修論読みました。
タイトルは、
「建築家のドローイングにみる<建築>の変容
 ――ドローイングの古典、近代、ポストモダン――」


本人の説明によると

論文のテーマは建築のドローイング(図面)です。
これまでの建築論ではさほど注目されることのなかったドローイングという存在の独自の機能とその変容、そして建築制作におけるその意義を探り、ドローイングという観点から<異説・建築史>を提出しようという、野心的な、否、やや野心的な論文となっております。
具体的にはミース・ファン・デル・ローエからリシツキー、テラーニ、リベスキンド、チュミなどといった建築家を取り上げ、古典からポストモダンまで長いスパンにわたってドローイングの変化を見ていきます。

とのこと。


以下簡単ですが感想です。



ドローイングという観点から「建築」の変化を論じるという斬新な試みは面白いし、刺激的である。論旨も明快。
また、その変化とその背景への考察における視点の鋭さは流石。
とりわけ最後の建築ドローイングと絵画を比較する部分での、「建築ドローイングが模倣から表現へと至り、さらに自己知の段階へ入る」という主張には、かなり考えさせられる。


建築ドローイングの変化の問題の面白いところは、やはり建築ドローイングの変化が、そのまま建築そのもの「変化」とはならない点だろう。

そもそも<古典的ドローイング><近代的ドローイング>と呼び、あたかも過去ものであるかのように扱ってきたこれらの図法も、多くの建築的実践の場においていまなお現役のものであり、むしろ数としては圧倒的に主流を占めているのであって、その意味では「変容」というよりも「拡張」ないし「多様化」という言葉遣いをしたほうが厳密かもしれない。

筆者のこの指摘は大いに的を得ている。
建築は住むものという基本的な考えは残り続けながら、その周りに建築家の主張、空間表現、新しい建築概念などがくっついてくるのである。
アヴァンギャルドなドローイングが出てくる一方で、機能的な建築も求め続けられるというところに建築の建築たる所以があり、そこに建築とアートとの差はあるのだろう。
そこにはやはり「空間内に入り込む建築体験」の有無があるような気がする。
実際の建物をもたないドローイングのみの作品も、位置づけはともあれどこかで(たとえ想像的なものであっても)建築体験を包含している。


しかし、ドローイングの変化が「建築」概念を拡張させる重要な役割を果たしてきたのは確かである。
筆者は、「ドローイングが<建築>を拡張させる『てこ』のような役割を果たしてきた」と述べ、「建築」と「建築ドローイング」との相関関係の重要性を指摘している。


本論では残念ながら、その相関関係が実際の建築にどのように現れるかという点までは考察されていない。
欲を言わせてもらえばやはり実際の建築物への考察まで進んで欲しかった。
リベスキンドの実際の建築には、彼がもたらそうとした建築概念の変化がどのように現れてくるのか?ドローイングの変化はそこにどう関係してくるのか?
当初はアヴァンギャルドなドローイングを提出するのみだったリベスキンドも、現在は多数の建築を建てているのだから、ただ概念、ドローイングの変化を追うだけではなく、実際の建築に見られる変化を考察して欲しかったというのは欲張りだろうか?




と、こんな簡単なレビューを書いてみる。ふう。
読みながら「米粒さん、やっぱ就職もったいねーよ!もっと研究すべきだぜ、あんちゃん!」と勝手に思いました。はい、我が侭。
米粒さん、就職しても頑張ってください。


んで、この論文読みたい人は
http://blog.livedoor.jp/kome00/
から本人に連絡とってください。
素敵な返信が来るはず。