昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

 ハンナ・シーガル『夢・幻想・芸術』

夢・幻想・芸術―象徴作用の精神分析理論

夢・幻想・芸術―象徴作用の精神分析理論


パラ読み。
発表ひかえてて、こんなものに手つけてる場合じゃないんだが、
やはり俺は忙しくなると、他のものに手をつける癖がある。
逃避。逃避。
いや、精神分析と想像、創作との関係については、前から興味があったのですよ。



前半部は、フロイト引っ張りつつ、何でもかんでも性、性、性器に還元するので、ちょっとうんざり。
(もう「性的衝動」とか聞き飽きたよ。なぁ向井さん?そろそろ「諸行無常」とか「性的衝動」とか、やめましょうや。あ、話が逸れた。)

精神病理において、死とか性とかってそんなに重要?っていう疑念は尽きない。
単なる読み物としてなら、面白いんだが、ここまで自明のごとく語られると門外漢としては「ちょっと待て」と言いたいのだが。
誰か素人の僕に分かりやすく解説してください。
「それは君が日常生活に囚われてて、気づいていないだけなんだよ」っていう、ある種「葵の御紋」的な言いまわし抜きで。



後半部は象徴理論から芸術について語っていて、いろいろと考えされられる部分があった。

芸術と遊びは夢や白昼夢とは違う。なぜなら芸術や遊びは、夢や白昼夢と違って、幻想を現実へと翻訳しようという試みでもあるからである。(p.170)

ふむふむ。

遊びは、何はともあれ愉快でなくなれば、放棄されるであろう。(・・・)芸術はそうではない。遊びと違って芸術的創造はもっと苦痛を含んでいて、創造する必要性は強制的である。それはたやすくは放棄されえない。芸術的努力を放棄することは、一つの失敗として、しばしば破滅として感じられる。(p.182)

遊びは白昼夢以上のものである。正常な遊びに於いては、人生の様々な局面や葛藤が表現されうる。白昼夢と違って遊びは、遊びの素材の現実性をも考慮に入れており、このようにして現実を学び習得する過程なのである。その点では、芸術は夢や白昼夢よりも、遊びに近い。(pp.183)

確かに。


精神分析の理論書というよりは、なんか、ヴァレリーとか読んでる感があった。
ただ全体的に、「芸術」の捉え方が、すげーロマン的。
そのせいか、結局、抽象的な議論に留まっている気もする。
そういう意味では、西村先生の『遊びの現象学』の方が議論が進んでいる気もする。
そもそも、アプローチの方面が違うから比べるところではないけど。
(前半部ではフロイト解釈的には色々細かく突っ込んでるから、フロイト解釈的には意味のある本なのかもしれない。ただ俺フロイト全然読んでないから、この論考の意義がどれくらいのものなのか判断がつかない。)
面白いっちゃ面白いんだけどなぁ。
もうちょっと突っ込んで一言お願いします!って読後感でした。
だから、絶版なんだろうな。
専門家的には、この本ってどういう位置づけなのかが気になる。



しかし、この辺の議論はサルトルの『想像力の問題』の後半部とすごく似てる議論なんだが、全然言及はされない。
やっぱサルトルの扱いってそんなもんなのかね。
(ちなみに、サルトルの『想像力の問題』も絶版ですが。人文書院にはもうすこし頑張っていただきたい。)
最近ラカンサルトルとの関係も気になるが、ラカンサルトルのどの辺を評価していたのかが知りたい。
つか、ラカン読みたい。
手だしてると、泥沼にはまりそうで怖いが。



もっと現代の精神病理学での、突っ込んだ議論が知りたいのですよ。
精神病理の側で補足的に芸術を語る人は多いんだが、美学の側からガチで精神病理美学やってる人っているのかな。
分析美学と精神病理の理論をぶつけることは出来ないのかしら。
その場合おそらく「無意識」の扱いが問題になると思うが。