昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

飽きの現象学

以前から(こことかに書いたように)、「美学は飽きという現象についてもうすこしきちんと考えるべきだ」というのが持論でしたが、もう、とりあえず自分で考えたいくつかのことをブログでぶちまけちゃおうかなと最近思いました。
もんもん考えても、特に発表する媒体もなさそうだし。(というかどの学会誌に出せばいいんだか良くわかりません。)
あと何よりも、「お前そんなことやってないで、サルトル研究して早く博士論文書けよ」といわれそうなので。


いろいろ考えているのだが、どうも大枠の話になりそうなので、論文にしてもえらい年寄りくさい論文になりそうだ*1。もうすこし技術を身につけてからから、本腰入れてやりたい研究ではあるけど。
つーか将来、これについて何か本は書くわ。
というか出版してくれるとこあるなら、今すぐにでも本腰入れますけど。
でもなー。まだ若輩者だしなー。地道に古典研究の技術もつけなきゃなー。分析哲学とかやってる人には「なーにだらだら曖昧な思弁めいたことやってやがる」とか思われそうだしなー。
というか、こんなのどこかでもう誰かやってる話かもしれないしなー。誰か教えてー。


ということで、とりあえず、アップします。まだまとまってはないから、何日か、かかるかもしれませんが。小出しにするつもりはあまりありません。とっとと挙げて、ちゃんとサルトル研究します。
既に貴重なご意見をくれたS、Oちゃん、研究室の同僚に感謝。
興味あるひとはコメントでもメールでも口頭でも、いろいろ御指摘、参考図書推薦などいただけるとありがたいです。
議論の構成についてのアドバイス、わかりにくい箇所・誤字脱字の指摘などなど。
みなさまの素朴かつ手厳しい突込みをお待ちしております。
将来、本のあとがきで謝辞送ります。(でも本は買ってください。)

*1:「年寄り臭い」論文というのはわかりにくい概念ですが、実際にある。

飽きの現象学 序



本論の目的は、飽きという側面から芸術体験を考察することにある。
飽きることについては、
 心理学(?)においては「馴化」、
 脳科学においては、「疲労硬貨」(脳を構成するニューロンが、同じ刺激に対して飽きるという現象)、
 経済学においては、「限界効用逓減の法則」
などと、様々な形で取り入れられているが、美学の領域においては、それほど主題的に論じられているわけではない。これはいったいどうしたことだろうか?
 我々は現に、ある音楽に聴きあき、ある本を読み飽きる。いかに優れた芸術作品であろうとも、何年もそれだけを鑑賞するということはない。優れた作品も、ある程度繰り返しの鑑賞によって、次第に色あせ、刺激を与えなくなるというのが一般的だろう。飽きという芸術体験につきまとう現象はこんなにもありふれているのに、美学(感性学)はその現象についてはあまり省みず、芸術体験を神聖なもの、崇高なもの、なにか特別なものとばかり考えてきたのではないか?我々はごく当たり前の経験を取り逃していないか?
 たとえばWoltonは、作品受容は何度でも可能であると言う*1Mimesis as Make–Believe – On the Foundations of the Representational Arts (Paper)
 確かに、子供は何度も同じ絵本を読んでくれとせがむ。お気に入りの一冊というやつだ。小説や映画などに顕著に見られるように、結末を知っていてもそれはそれで楽しめるというのは物語作品ひとつの特徴でもある。しかし、素朴な直観として、「いやいや、飽きるだろ!」という気持ちもあるだろう。Waltonが提出した〈繰り返し楽しめる〉という特徴が「なるほど、確かに」という印象をあたえるのも、そこで「飽きる」ということが通常のことすぎて見過ごされているからだろう。我々は〈作品に飽きる〉ということが〈作品を鑑賞する〉という行為にどのように関係しているのかを、考察しないままみのがしていたのではないか?


 だが、もしかしたら美の定義次第では、そこから飽きを排除することも可能かもしれない。つまり「美しいものとは決して飽きることがないものであり、飽きられるものは美ではないのだ」というかたちで「美」を定義すれば、飽きについての考察は、美学や芸術学にとっては重要ではなくなるかもしれない。しかし、そのような「完全な美」を我々は現実に体験することが出来るのだろうか?あまりに実感にそぐわない理想概念についての形而上学的すぎる議論によって、我々は実感にそぐわないおかしな理論を作り上げてしまっているのではないか?


 本論は以上のような、考えてみればごく当たり前の、非常に素朴な関心から出発している。議論の方針としては、この素朴な直観を生かしつつ、既存の哲学的概念にあまり頼らずに進めて行きたい。
(とはいえ、既に私も様々な哲学的議論に多少頭脳が侵食されてきているので、ついつい凝り固まった考え方をしてしまっていると思う。読者は、自身の日常体験を基点にしつつ、ごくごく素朴な観点から様々な突っ込みを入れて欲しい。)
ここで、本論が共感する姿勢として、西村清和の『遊びの現象学』の一節を引用しておこう。

「自分の経験に照らして見るかぎりでは、このごく日常的に見かける単純な行動や現象には、とくべつにこれといって謎めいたところは、まったくない。だが、いつもそうなのだが、この事実の単純さが、ひとをまどわせる。というのも単純さには、何かしら説明を拒絶するところがあるからである。ことがらの単純さそのものをねらい撃つような問いの立てかたというものがないだろうか。」(p.1)
遊びの現象学
遊びの現象学


 だが、ここでひとつ注意を喚起しておきたいが、本論の主たる狙いは〈飽きそのものの解明〉にあるわけではない。というよりむしろ、本論の目的は、〈飽きを補助線に既存の美学理論を見直すことで、美学の領域に新たな視点をもたらす〉という点にある。我々は飽きという側面から各美学理論を再解釈・再批判することで、その美学理論の射程・弱点を見極めることが出来るようになるだろう。


 したがって、本来ならば、これは共同研究的にやられるべき探求である。(誰か科研費とってー!)
 カント美学において、ヘーゲル芸術論において、ハイデガー存在論において、飽きはどのように位置づけられるか?(まぁサルトルはおいといて・・・つーか自分でやります。)またベルクソンのエラン・ヴィタール概念、ドゥルーズの持続の概念と飽きはどのように結びつくか(「スキゾ」概念は近いこと言ってるかも。詳しい人教えてください。)?レヴィナスでは?M・アンリの内在的現象学では?マリオンの「飽和した現象」と飽きとはどう違うか?
それらを専門の各研究者が考察することで、ひとつの飽きの図式が見えてくると共に、これまでの美学理論が飽きという側面を軽視してきたことが明らかになるだろう。
美術史、心理学、医学、などなどの専門化にも御教授を仰ぎたい。


 とはいえ――私に出来ることは肘掛け椅子の上での思考でしかないのだから――まずは哲学的に飽きとは何かを確認することからはじめなければならないだろう。
 よって、まず第一章では飽きが何かを分析する。
 第二章ではその分析を生かしつつ、既存の美学理論についていくつか考えるところを述べたい。
 第三章では、余談としていくつか思うところを述べるつもりである。


では、飽きについての飽きない議論ができますように。

『飽きの現象学


第一章 飽きとは何か――飽きの定義・分析
 1.1 飽きの言語的分析――飽き、慣れ、疲れ
 1.2 飽きは新奇情報の欠如――ロボット、飽きと価値
 1.3 飽きと対象――飽きは志向的行為の終わり 追記
 1.4 意志の欠如――飽きを意志的に行うことは出来ない
 1.5 時間的観点から――飽きへの落ち込みを捉えることは出来ない

第二章 飽きの美学
 2.1 感性‐飽きの二元論 the Aesthetic-Boredom dualism
 2.2 感性‐飽きの一体説 the Aesthetic-Boredom unit theory
 2.3 飽きの後の反省
 2.4 飽きの効用?
 2.5 飽きが作品の存在論に与える影響

第三章 飽きの考察から見えてくるもの
 3.1 飽きは美術史における様式の変化を説明できる。
 3.2 飽きは「芸術家は自分を深く見つめなさい」という言説を説明する。
 3.3 現代社会における飽き
 3.4 飽きないもの――食事、排泄等の低級欲、言語、依存。

*1:彼の議論の枠組みからすれば「make-believe gameは同じ作品propから何度も起こりうる」と言った方が良いかもしれない。(Mimesis as make-believe, p.259-)

飽きの現象学 1.1 「飽き」の言語的分析――飽き、慣れ、疲れ

『飽きの現象学
第一章 飽きとは何か――飽きの分析

1.1 「飽き」の言語的分析――飽き、慣れ、疲れ

●まずは「飽き」という言葉の使われ方に注目してみよう。言葉の使われ方に注目するのは哲学的にはオーソドックスなやり方だけど、いくつかの基本的特徴を発見させてくれる。(そして何より、いきなり奇妙な哲学的図式を持ち出さずに議論が進められる*1。)
●「飽き」の「飽」という字が「飽和」という熟語に用いられるように、「飽き」は何かに対してもう許容量がいっぱいであるというニュアンスを含むこともある。
●だが飽きは満足とは違う。「この作品にはとても満足しています。」「この作品にはとても飽きています。」この両者はかなり違うものである。ここでは「飽き」にはやはりネガティヴさが付きまとう。
●この飽和という概念は、〈量の増大〉による概念である。このことが示しているように、また、「飽きつつある」とか「ちょっと飽きた」と言われるように、飽きは有か無かというデジタル的なものではない。もっとファジーでアナログな現象である。


●英語だとtiredの一語が「飽きる(of)」と「疲れる(from)」の両方を意味する。boreやboredomは「うんざり」というニュアンスだろうか。どちらにしてもネガティヴなイメージが強い。
●フランス語だと「飽きる」はse lasserもしくはse fatiguerと言われる。ここでも「疲れ」「へとへと」というニュアンスが強い。
●「生活に飽きる」と「生活にうんざりする」は印象としては近いものがある。欧米系の言語の使用法を見るかぎり、「疲れ」とは飽きの重要なファクターであるようにも思われる。


●だが、飽きると疲れはそう簡単なつながりを持っているわけではない。確かに、実際「楽しいけど疲れたから、もう限界!」という場合はよくある。だが、疲れなければ飽きないのか?。疲れない飽きはないのか?例えば、寝すぎは?*2


●また、「この本にはもう飽きた」と言うとき、それは普通、〈この本を読むのに疲れた〉ということではなく、「この本にもう刺激・面白みを感じなくなった」ということを意味する。この〈新奇性の欠如〉(これについては次節で検討)については、心理学や神経生理学などでは刺激に対する〈慣れ〉と言うことがいわれる。
●だが「慣れる」と「飽きる」とは、ニュアンスはかなり異なっている。「この生活にもだんだん慣れてきました」は肯定的に用いられるのに対し、「この生活にもだんだん飽きてきました」はかなり好ましくない状態を指す。
●ネガティブさの度合いで並べてみると、
 「慣れる」←→「飽きる」←→「うんざりする・つかれる」
 ということになりそうだ。この順序で見ると、飽きるとは、〈慣れる〉と〈うんざりする〉の間の奇妙な位置にありつつ、若干否定的なニュアンスを背負っている。現に「厭きる」の「厭」は上から押さえつけられた重圧というニュアンスを持つものである。


●だが〈飽き〉とは常に否定的なものなのか?先に〈疲れない飽き〉という考え方に触れた。
●疲れない飽きを良く示しているのは、「死んだメタファー」である。「椅子の足」、「本の背中」。メタファーは通常、新奇性によって面白く、想像力豊かに受け取られるが、飽きられ日常化することで、普通の言葉として用いられるようになる。
●想像力が働かない死んだメタファーは一種の飽きであるが、疲れではない。このことを考えてみると、飽きと疲れと切り離して考えてみてもよさそうな気もしてくる。


●言葉の使用を見ることで、飽きのいくつかの特徴と共に、問題も明らかになってきた。〈慣れ〉〈疲れ〉と〈飽き〉はどう違うのか?飽きにネガティブさは必須のものなのか?この問題は、おそらく人間の新奇さを求める欲求と関係している。次の節ではもうすこし理論的に考えてみよう。

*1:和辻哲郎とか良くこの手法を用いる印象がある。西村『遊びの現象学』もそう。

*2:もうちょい何か良い例ないかな?

飽きの現象学 1.2 飽きは新奇情報の欠如――ロボット、飽きと価値

●心理学で言われる「馴化」とは、信号に対する慣れを意味する。これはインプットはあるがそれが自分に与える変化・進化・発展はゼロということである。だが、これは情報量がゼロということではない。作品鑑賞に飽きるときも、その作品からの信号がゼロになるわけではない。飽きとはその情報を受容しない態度である。
●飽きは〈予測の固定〉という事態でもある。「もう先が読めた。」「またこの展開か」と我々はため息混じりにつぶやく。これは鑑賞中の作品を、既存の知識との照らし合わせることで、既に自分がこれまでの鑑賞体験から作り上げて保持しているある図式にカテゴライズしきってしまう態度である。
●情報の受容・適用・利用に対する拒否・疲れ。(これは見方を変えれば、情報は常に来ているのだから、受容・展開のスキルによっては、飽きずに深く作品を解釈できるということでもある。このスキルは批評家にとって重要なスキル。同じ作品を鑑賞しつつも、深い読みができるのが鑑賞のプロである。)*1
●この情報受容の拒否は、現象学における「括弧いれ」とは違う。現象学では本質直観を目指しつつ余分な情報が排除することが目指されたが、飽きにおいては単に情報が受容・把握されない。(このような事態を一番示してくれているのが、ニューロン疲労効果や視覚生理学における消失だろう。)


●「飽き」とは、情報処理が定式化・慣習化され、特に遊び、喜び、驚きをもたらさなくなった事態を指す。
●これはある面からすれば、嫌悪すべきことである。(前節で見たように)一般的に飽きは不快感を引き起こすと考えられているかもしれない。
●だが、本当に飽きそのものが直接に不快なのだろうか?確かに、飽きは快ではない。だが快ではないからといって不快なのだろうか?


●私は飽きは直接的な不快ではなく、快感、刺激、特に知的な刺激を求める欲求があるからこそ、飽きが相対的に不快となるのだと考えたい。欲求と合わさることで、飽きは不快となる。より刺激を求める者、より快感を求める者、より豊かな人生を送りたい者、そういう上昇志向の人達にとっては、飽きは無駄であり、時間の浪費であり、不快なのだ。
●よって逆に、新奇さは価値あるものとなる。これは生物学のレベルでもいえる話だ。視覚生理学における「消失」の原因が信号への慣れと考えられているように、新奇でない情報については、脳は扱う価値が少ないものとして、現れとして顕現させなくする。
●だが、進化学的・生物学的レベルで言うと、慣れは生存に有利な機能でもある。我々は慣れることで脳の計算力を効率的に使用できる。佐々木正悟が『ロボット心理学』でコリン・ウィルソンの「ロボット」という概念を扱っている。そこでは、脳内に情報処理の制度が出来上がること――佐々木はこれを「学習」と呼ぶ――が「ロボット」として表現され、その成立によって人間は徐々に楽しみを失ってしまうと言われている。(p.29)「ロボット」心理学
●この点に関しては最近は脳科学者がいろいろ言ってる。モギさんとかシモジョウさんとか。


●飽きると忘れる。共に人間的行為であるが、〈忘れる〉と違って〈飽きる〉は行動を繰り返すことで刺激に慣れることが原因である。逆に刺激は繰り返すことで長期記憶を形成し、忘れることを不可能にする。

(森 功次)

*1:ちなみにマリオンは「専心する者l’adonné」という概念について論じながら、〈呼びかけは常に起こっているが、それに対する応唱が疲れることで、我々は呼びかけを受容できなくなるのだ〉という議論をしている。Étant donné, p.398