昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

ロックのライブと身体と映像

フジロック行ってきました。
まぁ勉強サボって行くからには、美学っぽいことを少しは得てこようと、聴きながらなんかいろいろ考えてました。(言い訳でしかないです、はい。)
いやー寝っころがりながらだらだら音楽聴くって良いですね。


で、何観たとか、何が良かったとか、もうそういうのは書きませんけど、考えたことを書けといわれたので少し。
考えたことは大きく分けて、ふたつ。
音楽と身体の話、音楽と視覚の話です。



ひとつ目は、「やっぱ体揺らしながら聴く音楽はええのう」、っていうクラブ行ってる人にとっては当ったり前の話。
でも、音楽学って結構このへん切り離して、聴覚だけの話をしがちなんです。
そもそも全感覚的なものであるはずのひとつの体験から、聴覚的なものだけを切り離して考えている。
それを可能にしたのは、録音媒体のおかげみたいな部分もあるんですけど、やっぱいざライブ行くと、音だけを語るってのに違和感も湧いてくるわけですね。(この辺の疑問は、写真論、映画論にも転用可能。)
まぁ分析手法として音だけを考えるってのは全然OKなんですけど、そこで思考するときに、体験から何を切り落としているかははっきり認識しておく必要があるな、と思っただけです。
むしろ、なぜ我々は音だけを切り離して語るようになってしまったのか?
というか、音だけを切り離した議論を作ることで、何を言おうとしたのか?
シュスターマンは、「文学は聴覚的純粋性を目指すことで視覚的な部分を考えなくなってしまった」と批判しているが、それを音楽に当てはめて考えると、音楽についても聴覚的純粋性を求めた伝統的美学の弊害がどこかにあるのか?
身体性を極力削除しようとした美学の影響?
よくわからん。
ただ、哲学で音楽が引き合いに出されるときなどは、いろいろと注意して考えるべきですね。
何のために、聴覚に特化した理論となってしまった音楽の例を出すのか?と。


ただ、それぞれの理論はともかく、ライブというイベントにおいては、爆音を身体で感じるのが重要なわけで、ここまで来ると、もう聴覚か運動感覚か微妙なライン。
バスドラはお腹で聴くものでありんす。
シュスターマンのソーマエステティックの議論はもう少しちゃんと考える必要がある気がしてきた。


以上、ライブ行って身体揺らさないって、なんかつまんないわねーという、雑感。
(でも後ろで寝ながらライブを見れるのがフェスの醍醐味であります。これ重要。)






もうひとつは、音と視覚に関してです。
こっちも結論から言うと、「現代の音楽産業でライブってのは視覚的要素が思ったよりも大きいのね」、という、なんかもう当ったり前のことなんですけどね。
一応言っておくと、今からするのは、アーティストの現前性の話ではなく、視覚の話です。
もちろん、アーティストが目の前に存在しているってのがライブという要素のひとつであることは間違いないのですが(礼拝価値!)、今回はちょっと違う話。


クラブ行ってVJとか観まくってる人にとっては、「映像使って何ぼでしょ」って意見があると思うんです。
当然のごとく。
でも、いざ実際にロックのライブ行ってみると結構みんなまだ映像はあんま使ってないのね。
本人の映像そんまま大画面に映すだけ。
グリーンステージ(メインステージね)で、マイブラアンダーワールド観た次の最終日に、プライマル(寝ながら)観ながら思ったんです。
映像つかうか使わないかって結構差があるなぁ、と。



つまるところ、今回、マイブラのVJが、かなーりかっちょよかったわけね。



で、なんかこんなん観ちゃうと、音だけ考えるロックの理論ってやっぱちょっと問題なんじゃないのとか思っちゃうわけです。(でも、繰り返しますが、分析手法としてはアリです。)
ロックの存在論の分野では、Theodore GracykとかAndrew Kaniaとかがライブをどう組み込むか試行錯誤してるんですけど、
(cf. Andrew Kania, "Making Tracks: The Ontology of Rock Music" Journal of Aesthetics and Art Criticism, Volume 64, Number 4, Fall 2006 , pp. 401-414(14))
でもそこで、視覚的な要素とかあんまり考察されてないのよねー。


で、音楽と視覚の関係を考えてみたのが、コレ。


思いつきで適当に図描いただけなんで、突っ込みどころはあるとは思うけど、
今回いろいろ考えたのは、赤色の部分です。
現代では、ここの赤い部分の差が、かなり微妙になってる。
現代では、でかいアーティストのライブ行くと、VJは無くても大画面映像は必ずと言っていいほどあって、遠くから見る客は、アーティスト本人はあんま見えないから、むしろ画面見るのですね。
それって結局、視覚的には、家でDVD観るのと大差ないわけです。でかいだけ。


でもまた、VJとかで映像流すアーティストのライブはむしろ映像が結構重要だったりするわけです。
マイブラは本人らはほとんど動かないわけで(シューゲイザーですから!)客はむしろ映像と照明のショーを楽しんでいたはず。
ライブというよりも、ショーなんです。全体芸術。


まぁショーという意味では、マイケルとか氣志團とかのライブは映像なしでもすでにショーなんですけどね。
でも、現代の照明技術の発達、VJ、そういった要素がライブのショー化をさらに加速させているという現状はまちがいないです。
そして、それはおそらく90年代後半からのパソコンの発達が大きく寄与している。
そういや自分も高校のとき、友達に映像作ってもらってライブの後ろで流したことあったなー。
10年たって、ライブの視覚的要素もここまで進化したかー、と感慨深くなったと同時に、


なんとかこの辺をうまく説明する論ができないかなぁ、と考えながら夜ダンステントで踊る毎日でした。




フジロックいえー。



おわり。尻切れ。