昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ

現代ビジネスの記事で映画の倍速視聴がちょっと話題になってた。

 

倍速視聴の問題はネタバレの話と論点がかぶりそうな話題だよねー、と思ってたら、早速銭さんがそれをテーマにnoteを書いてた。早い。

論点整理もクリアで、さすがですね。

 

 

で、銭さんがネタバレの話に言及するときに僕の論文や記事などをいろいろ引いてくれていたので、一応リプライしておこうと思い、以下、思いついた論点をいくつか書いとく。あまりまとまってないけど。

 

 

以下の部分を読む人は、先に銭さんのnote読んでおいて下さい。この記事は自分の思考整理的な狙いで書くものなので、もろもろの前提はいろいろすっ飛ばして書くよ。

 論点はふたつ。

 1.倍速視聴は作者の意図から逸れる失礼な見方なのか

 2.倍速視聴は通常の観賞を想像・追体験可能なのか

 

 

1.倍速視聴は作者の意図から逸れる失礼な見方なのか

 銭さんのnoteでは、僕の記事を引きつつ、「失礼な鑑賞」という論点を出していた。僕はこれまでの論文、記事などでたびたびこの「失礼」という言葉を使ってきたし、いま準備中の本でも「失礼」というのがひとつのキーワードになる予定だ。

 これまでの論考の中では、この「失礼」という語をあいまいに用いていたが、僕としては今は、この「失礼な鑑賞」というのは、単純に「作者の意図から逸れる鑑賞」とイコールではない、もうすこし微妙なニュアンスで捉えるべきだと考えている。

 その点を説明するために、まず「作者の意図」という論点のやっかいさについて触れておこう。

 

 1.1 作者の意図のやっかいさ

 解釈において作者の意図をどう考慮するかについては、意図主義vs反意図主義の議論の蓄積があり、それはかなり有意義な論争であったと思っているが、この議論を実際の作品批評や作品分析に応用しようとすると、けっこう使いづらい。理由はいくつかある。

 まず、(1)世の中の多くの作品においては作者の意図がはっきりしない。次に、(2)映画など大量の人が関わる作品においては、作者をそもそも特定しづらい。そして、――これがおそらく現代においては一番厄介なのだが――、(3)現代の多くの作者は「自分の意図なんて考えなくていいから作品は自由に見てよ」と考えている。

 こうしたもろもろの事情から、作品解釈において「作者の意図」をはっきり持ち出せるケースは少ない。上記の3点は、意図主義vs反意図主義の論争においてはしばしば指摘される論点であり、その論争の中で、意図主義側からそれへの対応策も出ているが、いずれにせよ、作品解釈の実践場面では、意図を持ち出せるケースは少ない。

 

1.2 「失礼な観賞」の微妙なニュアンス 

 「失礼な観賞」というのは、「作者の意図に反した鑑賞」だったり、「作者の意図を考慮しない鑑賞」だったり、いろいろな理解のされ方がある。そして、作者の意図を考慮しないことが、作者の意図に合致していたり、作者の意図から逸れていたりすることになるから、いろいろとややこしい。

 ひとつはっきり言えるのは、解釈レベルでは、作者の意図に反する(もしくは作者の意図を考慮しない)解釈をすることが、失礼にはならないケースが多々ある、という点だ。作品をきちんと作品として十全に味わおうとしているのであれば、そうした自由さはおおむね許容される。深読みによって編み出された、作者の意図していなかった解釈が、主流の解釈になることはあるし、それが作者によって事後的に許容されたりもする。

 カテゴリーレベルでいえば、作品を作品として扱わないやり方は、ときに失礼な観賞になる。カテゴリーに関する意図を無視(もしくはその意図に抵抗)し、芸術作品を芸術作品として扱わないような態度をとることは、失礼な態度になりがたちだ。

 しかしここでも、意図のやっかいさが問題を複雑化する。エンタメ作品の作者などに典型的だが、「自分の作品は芸術作品ではないので、好きに扱って下さい」と考えるひとはけっこう多い。作者側にも、「ネタバレされても売れるなら問題ない」「見てもらえるなら倍速視聴でもOK」と言うひとはそこそこいるだろう(そして本心からそう主張するひともいれば、しぶしぶ受忍している人もいるだろう)。そうした意図を無視して、その人の作品を高尚芸術の観賞と同様に「じっくり味わって見る」のは失礼なのだろうか。

 

 作品観賞における失礼さにはいろいろなバリエーションがある。それは作者の意図と無関係ではないのだが、必ずしもすべての失礼な観賞が「作者の意図に反する観賞」ではないのだ。

 

 

2.倍速視聴は通常の観賞を想像・追体験可能なのか

 銭さんの議論の結論では、倍速視聴について「意図された鑑賞がどのようなものかぐらい想像できる範疇なんで、問題ないんですよ」という主張が出されている。これは結論の少し前で述べられた、次の主張を大雑把にまとめたものだ。

「自らの認知能力によって再生可能な範疇でなされる倍速鑑賞は、「作者が意図した仕方での鑑賞がどのようなものであるか、およそ正確に想像・追体験する」ことを妨げない点で、失礼さないし非真正さを取り消すような要因となる。」 

 銭さんの主張には「意図」という論点が入っているが、その概念が厄介であることは1のパートで述べたので、次に「倍速鑑賞はふつうの鑑賞を想像・追体験可能なのか」という点について、いくつか反論めいたことを述べておきたい。

 

 2.1 身体反応は想像・追体験可能なのか。

 倍速視聴でも、頭がついていけばストーリーや作者の狙い等は理解できるだろう。だがどれだけ頭がついていっても、身体反応までついていけるのだろうか。

 映画は見る人の感情を操作する。それはわたしたちの身体反応を操作することだと言ってもいい。映画の技法は、心拍数を高め、アドレナリンを出させるだけでなく、それらの反応を落ち着かせることにも使われる。

 倍速視聴がとりわけ取りこぼしそうなのが、その「反応の落ち着き」の効果である。ゆったりとしたカメラワークや、会話の中であえて設けられる間。こうした技法は、そこまでの反応を落ち着かせるために使われることも多い。また、スローなテンポの音楽がアップテンポになってしまって、テンションが上ってしまったら、演出は台無しだろう。銭さんも音楽は倍速で聴かないと書いていたが、映画の音楽が倍速化されることはなぜ許容されるのだろうか(逆に映画音楽の効果が想像・追体験可能なのであれば、なぜ音楽鑑賞も倍速でやらないのだろうか。)。*1

 「反省的思考をさせるため」ような頭脳のための間であれば、想像や思考によって補うこともできるだろう。だが、頭がいい人でも身体反応を倍速化することは(ふつうは)できない。ふつうの人は、その効果を取りこぼすだけだろう。(もっとも倍速視聴のために苦しい修行を積めば、倍速視聴に適応した倍速身体を獲得することもできるのかもしれないが)。

 

 この批判に対しては、「身体がついていかなくてもその効果は頭で想像可能なんですよ」という再反論があるだろう。だがそうした身体を置き去りにした鑑賞は、ふつうの鑑賞からは、その分遠くなる。ここにはいってみれば、「頭が良ければ可能な観賞」から「頭でっかちな観賞」への移行がある。それで技法の効果や上手さをきちんと味わえるのか、という点で倍速視聴擁護派のハードルは依然として高いままだろう。

 

 2.2 その作品が倍速視聴向きかどうかは、見てみないとわからない

 もちろん倍速視聴向きの作品というのはあるだろう。気持ちを落ち着かせるための間をあまり設けない作品などは、倍速視聴でさくさく見たほうがよいということもあるかもしれない。

 だが厄介なのは「その作品が倍速視聴向きかどうかは、見てみないとわからない」という点だ。

 倍速視聴で見てしまったけど実は間をすごく上手に使う作品だった、という場合、ネタバレ情報を先に読んでしまったケースと同じく、もはや取り返しはつかない。銭さんは「音楽のある場面や緊張感のあるシーンやクライマックスでは等倍にすればよい。」と書いていたが、その判断はいつやるのか。

 大事そうな場面だけ巻き戻して見直したとしても、初見時に味わえていたはずの驚きやサスペンスといった効果を、二度目の普通速視聴で十全に味わうことはできないだろう。ここでも結局、「観賞前にネタバレ情報を読みに行くことは悪い」と主張するときと、ほぼ同様の論点が当てはまる。倍速視聴はリスクであり、そのリスクを犯す点で作品を適切に扱っていない。「とりあえず倍速で見て、ちゃんと味わったほうが良さそうだったらちゃんと見るわ」と作者に伝えたら、多くの作者はガッカリするだろう。

 

 

 おわりに

 自分もyoutubeで公開された学術セミナーやポッドキャストなどを、倍速で聞くことは多い。これは、あくまで話の内容を聞こうとしていて、話の上手さ、間のとり方の上手さ、といった美質はほとんど無視しているからだろう。だが自分は、映画やドラマを倍速で見ることは(ひとまず現時点では)ない。それは作者や作品に失礼だということ以上に、作品に対する美的評価をきちんとしたいからだ。

 倍速でも正確な評価ができると主張する人は、身体反応まで正確に想像・追体験できると言い張らねばならない。僕にはそれは無理だし、できるとしても、そのような身体を切り捨てた観賞はあまりしたくはない。

 

 

 

 

※2021/03/30追記

 

その後の議論

*1:銭さんは食事のアナロジーを出していたが、食事においても、激辛カレーのあとにすぐ繊細な出汁の料理を食べると味がわからないだろう。味を味わうには、舌を落ち着かせる時間が必要だ。

現代ビジネスに『シン・エヴァ』記事を書いたので、そのネタバレ論をさらに掘り下げて解説

 『現代ビジネス』に記事を書きました。

 『シン・エヴァ』まわりではみんなネタバレに配慮していて優しいね、という話です。基本ネタバレなしで、おもしろかったとか、つまらなかったとかも書いてないですが、記事を読む人は、まず記事冒頭の注意書きをよく読んでください。

 

 

 

 『シン・エヴァ』は3/10の水曜に見に行ったんですが、映画館出て携帯電源入れたら執筆依頼メールが来てました。タイミングに運命を感じる。

 

「『シン・エヴァ』で、ネタバレなしで、ネタバレ論を書く」

これ、けっこうムズいお題だったんですが*1、けっこう早く書き上げることができて金曜昼には校正まで終えたので、「俺頑張ったなー」と悦に入ってました。

でも、よくよく考えるとガチファンの方たちは、情報量が格段に上の考察を公開直後にupしてるんですよね。あれに比べると全然ですわ。

 

 

さて、今回の記事では、冒頭に次のような注意書きを入れてます。

【注意】本記事は、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の内容にはまったく触れていません。普通の意味での「ネタバレ」を避けたい人でも、安心してお読みいただけるはずです。とはいえ、余計な情報を入れずに『シン・エヴァ』をまずは真摯に味わいたい方は、この種の記事すらも避けたほうがいいかもしれません。

 

このエントリでは、この注意書きの真意を解説しつつ、ネタバレ論の話をもう少し掘り下げていきたいと思います。

 ポイントは、(1)なぜ「普通の意味での「ネタバレ」」というまどろっこしい書き方をしたのか、そして、(2)なぜ人によってはこの種の記事でも避けたほうがいいのか、の2点です。

 

【注意】以下の考察では『シン・エヴァ』のネタバレ情報を出しています。『シン・エヴァ』未見の人は、以下の考察を読むかどうか、よく考えて下さい(いずれにせよ、先に上の『現代ビジネス」の記事を読んでね)。

 

 

 

では、考察に入ります。

 

 

1.ネタバレ概念をどこまで広げるか:公然の事実、演出技法、表現の狙い

 以前、『フィルカル』に載せた論文では、「ネタバレ」の語義をかなり広げて議論を組み立てました。

 

philcul.net

 

 ふつう「ネタバレ」というと、犯人・トリックをバラすとか、物語の筋をバラすとかを指すと思います。今回の『現代ビジネス』の記事でも、その部分は当然避けました。

 この種の分かりやすいネタバレは、けっこう分かりやすいネタバレなので、あまり「これってネタバレなの?!」という揉め事は起こりません。ただ「どこからがネタバレなのか」という問題は、ネタバレを議論するときにもしばしば問題になる点です。

 

 先の記事では、通常の意味での「ネタバレ」はなし、としましたが、実は広い意味では「ネタバレ情報」と言えるかもしれない情報を含んでいます。

 このあたりの部分です。

「この作品の発展は、監督個人の思想および人生経歴とセットで語られるべきものだ」(5頁)

「『シン・エヴァ』は、同作の爪痕を抱えながら生きてきた人たちに向けて、庵野秀明が送り直す最終提出物である。」(6頁)

 

 ここで言われていることは、ファンの人であればごく当然のごとく把握している事実ですし、作品公開前でも言える情報ですので、ふつうは「ネタバレ」とは言いません。

 

 でも、これは『シン・エヴァ』を観る上では、絶対に押さえて置かなければならない重要な点でもあります。

 この部分を踏まえずに『シン・エヴァ』を見ても、特撮スタジオ風の戦闘シーンとか、最後の映像が実写風になるところなどは理解できないでしょう(ラストシーンの新宇部川駅は庵野秀明の地元、宇部市の駅)。

 市街地戦闘シーンで住宅が模型みたいな崩れ方をしてるのは、明らかに特撮らしさの表現です。そのシーンを普通のロボットアニメと同じような態度で観てしまって「なんか戦闘シーンのCGちゃちくない?」と思ってる人は、作品の見方が分かってないわけです。そういう人は、特撮スタジオ風の戦闘シーンが出てくるあたりは、理解不能でしょう。「なにこの謎アニメ、意味分からん」となって終わりです。

 

 このような、そこをふまえておかないと作品が理解できないような、公然の事実をどうあつかうべきか。それを指摘することはネタバレになるのか。 

 

 この問題を考えるために、まずはこう考えてみましょう。

 先の記事で、仮にこういう言い方を出してたらどうでしょうか。

 

「『シン・エヴァ』には、ファンに向けたメッセージとして、庵野秀明本人の実人生を絡めたいろんな表現が出てくる」

 

 この言い方は、ストーリーには触れてませんが、多くの人はおそらく「ネタバレ」に含めるのではないかと思います。表現の目的・テーマをはっきり限定しているからです。

 さらにメタフィクション的演出が出てくるよ」みたいな言い方をしてたら、もっとダメでしょう。

 

 「特撮スタジオ風の演出」というのは、どんでん返しのような作品の根幹部分の演出ではありませんが、それでもひとつの演出(それも、気づく人のみがその意味に気づく演出)です。そうした演出技法が出てくることを予告をするのは、作品鑑賞に余計な期待・事前解釈を持ち込ませることになるので、嫌う人も多いと思います。

 

 「公然の事実」をどうあつかうかは、また後で考えるとして、ひとまず「表現の狙いの指摘」「(根幹部分ではない、細かな)演出の種類の指摘」、これらはやはり、僕としては「ネタバレ」のほうに入るものだと考えます。

 これらは、これらはストーリーや犯人、トリックに言及しない点でネタバレ度合いは薄いですが、それでも広い意味でのネタバレに入るものでしょう。

 

 

2.ネタバレとそうでない情報をどう分けるか

 問題は、ネタバレとそうでない情報をどう分けるかです。

 『フィルカル』に載せた論文では、ネタバレに入るかどうかの基準のひとつとして〈味わうべき工夫によって、本来得られるはずだった感動を減じる情報〉といった考え方を提案していました。

 この基準では、映画の予告編や宣伝チラシなどもネタバレに入ることになります。映画予告編は味わうべき魅力的映像を事前に見せることになりますし、宣伝チラシも作品を事前に低画質で見せることになるからです。

 しかし、ここまでネタバレ枠を広げると「なんでもかんでもネタバレになるのでは」という批判も受けることになります。『フィルカル』の論文にも、「ネタバレ概念広すぎでは」という批判はけっこうもらいました。

 僕自身は、このようにネタバレ概念を広げることで現代文化のいろんな悪さが見えてくるので、これでいいんだ、という立場なんですが、とはいえ、「ネタバレ概念広すぎ」という批判には対しては、もう少しうまく応答する必要があると思います。

 

 

3.「ネタバレの度合い」を考えることで、広いネタバレ概念をより使いやすくする

 この問題を考える上で、ネタバレの濃さ・薄さのような度合いを考えることは、ひとつの手です(別に用語法は「濃い・薄い」でも、「中心的・周辺的」でも何でもいいんですが)。

 濃いネタバレ(ストーリーの結末部分、重要な演出)と、薄いネタバレ(オマージュ、隠れたテーマ)といったように、ようにネタバレに度合いを考えることはできます。

 濃い・薄いの度合いを決めるのは、「そのネタバレによってどれくらい観賞が阻害されるか(どれくらい快が減るか)」です。クスッとした笑い、オマージュ発見の快楽(優越感)、などを減らすのは、薄いネタバレの対象になります。作品の重要な面白さが味わえなくなる犯人バラシなどは、濃いネタバレです。

 このような度合いの説明は、僕らが「これくらいの情報ならネタバレしてもいいかな」と決めるときの判断基準におそらく合致してるんじゃないかな、と思います。オマージュ表現の存在をバラすのは、「発見の快楽を捨ててでも、それを知って作品理解を向上させたほうがいい」と考えるからでしょう。

 また、(僕はこの立場には立ちませんが)「犯人を知っていてもこの作品は楽しめる」と考える人は、犯人バラシを薄いネタバレに入れるかもしれません。

 

 このようにネタバレの「薄さ・濃さ」を考えることで、「何でもネタバレになるやろ」という反論に、「ネタバレのいろいろな悪さは説明できるから、それでいいんだ」「あなたたちがネタバレじゃないと思っているのは、薄いネタバレなんだ」と応答できるようになります。

 

 

4.「公然の事実」もネタバレになりうる

 しかし、さらに微妙なのは、先の記事内で触れ出していたような情報です。もういちど引いておきます。

「この作品の発展は、監督個人の思想および人生経歴とセットで語られるべきものだ」(5頁)

「『シン・エヴァ』は、同作の爪痕を抱えながら生きてきた人たちに向けて、庵野秀明が送り直す最終提出物である。」(6頁)

 これらは、ファンにとってはごく当たり前に理解されている、「公然の事実」です。映画の宣伝文句にも、この種の文言は入っているかもしれません。

 ですが、作品鑑賞中にこうした点を思い出し、作品の演出に気づくことができるかどうかは、人によります。分かる人たちは、メタフィクション的演出や実写風の新宇部川駅の意味を観賞中に気づいて、「分かるよ!」「これは自分たちに向けられた演出だ」とある種の共感を感じるわけです。逆に、わからない人は、いくら上記の「公然の事実」を知っていても、その演出の意味がわからない。この分かる人と分からない人との差は、分かる人にある種の優越感をもたらすものでもあり、その優越感は観賞の快にもつながっています。

 

 A「庵野秀明本人の実人生を絡めたいろんな表現が出てくるよ」が薄いネタバレになるとしたら、B「この作品の発展は、監督個人の思想および人生経歴とセットで語られるべきものだ」という公然の事実の指摘はネタバレになるのか。

 これは微妙なところです。

 Bを「Aを示唆するヒント」として読む人は、Bすらもネタバレ的な指摘に含み入れるかもしれません。「わざわざその点を指摘していたから、そこに意識が向かってしまって、発見・気づきの達成感が減ってしまっただろ」と考える人もいるかもしれません。

 『現代ビジネス』記事の注意書きで、「普通の意味での「ネタバレ」」は含んでないですよ、という回りくどい言い方をしていたのは、その懸念があったからです(まぁここまでネタバレ概念が広い人は、数としては少ないでしょうから、記事タイトルには「ネタバレなし」と書きましたが)。

 

 

 まとめ

 作品を理解する上で重要な公然の事実を指摘することは、通常はネタバレには入りませんが、その事実をわざわざすることは、場合によってはネタバレになりえます。

 「公然の事実」の指摘が、観賞中の意識に余計なバイアスをかけるなどして、観賞(発見の快楽)を阻害するとしたら、それは薄いネタバレです。その阻害の度合が大きさによって、薄いネタバレは若干濃いネタバレになるでしょう。

 既存の情報のどこに意識を向けておくか、というのも観賞スキルのひとつです。そのスキル発揮を邪魔されたくない人にとっては、公然の事実を散りばめた記事ですら、観賞の妨げになりえるのです。

 

 

*1:依頼は「シンエヴァ現象を枕に置きつつ、ネタバレの美学的考察について一般向けに紹介する記事」というものだったので、「ネタバレなし」てのは編集者からの依頼ではないんですが、自分はこれまでにアンチネタバレの立場を繰り返し主張してきましたので、ここでネタバレありの記事書くわけにはいくまい、ということで自主規制しました。おかげで執筆のハードルはかなり上がったんですが。

メルロ=ポンティ哲学研究会に特定質問者として出ます。3/27(土)

メルロ=ポンティ哲学研究会に特定質問者として出ます。

 

第10回メルロ゠ポンティ哲学研究会 特別企画「現象学的美学ワークショップ」

 

(参加登録:https://forms.gle/gSDtrNJDZjDKP1SdA

日時:2021年3月27日(土)11:00-18:00

開催方法:Zoom

- 午前の部 11:00-12:30

ミニ合評会:小熊正久『メルロ゠ポンティの表現論 −言語と絵画について』

特定質問:常深新平、 國領佳樹

著者リプライ:小熊正久

- 午前の部 14:00-18:00

現象学的美学ワークショップ

 

 

峯尾 幸之介(早稲田大学)「初期現象学派の美学について」 

小熊正久(山形大学)「現象と芸術作品―フッサールインガルデン

伊藤哲史(慶應義塾大学)「ピエール・メナールは『ドン・キホーテ』の著者になれるか―文学作品の同一性について―」

特定質問:森功次(大妻女子大学

 

merleaupontystudies.blogspot.com