昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

二元論的思考は気持ち悪いという意見をうけて。

自分の研究とはあんま関係ないのだけれども、哲学的なプロスペクトを書きちらしときます。まとまってません。自分でも整理できていないので、興味がある方はまた日常会話で突っ込んでください。「これ読め」という読書案内は大歓迎。というか誰か助けて。



自分は二元論者だが、友達と話してて、二元論的思想はなんか気持ち悪いという突っ込みを受けた。ゴーストとかよくわからんやん、と。まぁわからんでもない。


ただ、自分は、人間の自由意志があるかないかという話は、無い側でもいいと思っている。
人間というか生物全般は、電気信号とか粒子の運動であり、それへの反応とかそういう点から考えれば、自由でもなんでもないという結論は妥当だと思う。刺激を受けて、反応してるだけだというレベルで考えれば、自由なんてなくてもいい。自由という概念が出てくるのは、刺激反応構造の微細さを捉えられないからであって、単に見えない部分をブラックボックス化しているだけに過ぎない。


フィクション・芸術・言葉、これらは全て信号によって引き起こされる反応であると考えると、可能世界とか言い出さなくてもいい。別に新たな世界が作り出されるわけではない。現実とは別の世界がもしあったら、このような信号受容の形になるだろうという脳内シミュレーションが為されるだけだ。
自分は、シミュレーション理論はこの意味で正しいと考えている。
シミュレーション理論とは、それが真面目かふりなのかという議論ではないのだ。


われわれの通常の脳機能が電気刺激をある程度の安定状態に保っているとすれば、感動や怒り、想像といった反応は、一種のパニックであって、それが受容者内でうまく統合・整理されると、発達や学習、芸術体験として捉えられる。パニックが落ち着けられない場合――それはコンピューターで言えばオーバーヒートのようなものだろうが――それは要するに、精神錯乱である。
認識・判断とは、要するにパニックを落ち着けることだと考えている。それは自己の信号受容構造のうちに、新しい刺激を組み込み、パニックを落ち着ける作用。この作用を発達させないと、生物は情報過多のうちに混乱してどうしようもなくなる。
以前、美学的問題として「飽き」を考えようとした(http://d.hatena.ne.jp/conchucame/20080430/p2)が、飽きは結局、パニックに対する「慣れ」ということで現在は考えている。
パニック処理の簡素化という点で、それは信念、常識、命題、定義などに近い。


結局、生物にはある程度のパニック(それは落ち着けられることで一種の快楽を伴う)と、ある程度の安らぎが必要という思想になる。


では人間はパニックを落ち着ける際に、どのような目標・目的を持って落ち着けるのだろうか?目的論的な思考はおそらくそこに帰着する。
芸術に限らず、倫理的なものについての主観的な思考一般は、このパニックの落ち着けと言う点でどのような目的性があるのかという視点から考えられねばならない。
もし、想像的抵抗が倫理的なものに関わるのであれば、そこに倫理的な要素が入り込む可能性はある。人間はパニックを落ち着かせるときに、受け入れやすい形で落ち着かせる傾向にあるということになれば、だ。
だが単に想像的抵抗が概念的・構造的な落ち着かせでしかないのであれば、特に倫理的なものにこだわる必要性はない。悪い形であれ落ち着けばいいのであれば、倫理的問題は関係なくなる。ジュネ。
おそらく、そのパニック受容の形を社会的に合致した方向に育てるのが、文化であり教育である。


おそらくこのような考え方を、主体という観点から見ずに、単にエネルギーの流れとして見ると、ベルクソンドゥルーズ的な思考になるのかもしれない。(このへん、あまり詳しくないから適当。)



ただし、結局、もし微細な部分も全て定義・措定が可能になったとしても、つまり「インテル入ってる」的な状況になって自分の脳内状態も周りの状況も全てリアルタイムでばっちり計測可能になったとしても、なぜ自分という意識があるのか?という問題はまた別な気がするのだ。
私の意識を構成しているのが信号であるとしても、なぜ痛いという感覚があるのか?
「痛いという感覚」と「感覚の構成要素(電気信号)」との違い。
おそらくこれは「私はなぜいるのか?」という古典的な問いに回帰する。
そのゴースト的なものを説明するためには意識というものを根源的事実brute factとして想定した二元論をとるほうが、まだ納得できる。一番説明力のある方法をとるべきだという哲学的立場から、俺は二元論的立場をとるのである。
じゃぁその意識ってなんなの?といわれると自分でもよくわからんのだけれども。だからbrute factなんだよ。*1
まぁ確かに気持ち悪いといえば気持ち悪いよね。
あんま考えると精神病みそうなんでこのへんで思考停止します。




自分は原稿書かないかんときにかぎって、別なところに頭働かせる癖がある・・・
研究発表は来週。サルトルの『存在と無』以降の倫理思想について、です。
関係ない・・・

*1:ただし、この考え方にはいつ意識が生まれるのか?という問題がつきまといつづける。受精の瞬間?精子とか卵子とかって意識あんの?