昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

西村清和『プラスチックの木はなにが悪いのか』への山形浩生氏の書評

西村清和の本『プラスチックの木でなにが悪いのか』について山形浩生が書評(のようなもの)を書いてる。
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20120120
ただ、読み方があまりにひどい*1
このひと議論の流れをまったく理解できてないどころか、そもそも哲学書の読み方を身につけてないんじゃないか、とも一瞬思ってしまったけども、まぁ一応たくさん本を読んでらっしゃる人だし、英語も読める人だし、西村の書き方も悪い所がないわけではないので、一応、専門家の端くれとしてフォローしとかなきゃいけないな、とおもって書く次第。
いっときますが、個人攻撃ではありません。こういう誤読はよくあるし、このあたりの議論をこれまでちゃんと世間に紹介してなかった美学者にも責任があるのです。

この本については、以前のエントリも参照。



はい。
では、最初に山形氏が引用している一文。

自然の木を断念してプラスチックの木に代えることは、それがけっして自然の木の美的経験の代わりになることはないから、単に自然に対する義務や自然の断念という倫理上の問題としてではなく、まずは美的にまちがいであり悪いのである。(p.173)

この文章について、山形さんは「トートロジー」で意味ないんじゃないか、って言ってますけども、これ議論の流れからすると、いちおう意味のある文章なんですね。

議論の流れを、本にそくして見ておきましょう。
この文がある第5章でなされてるのは、
「街路樹をプラスチックの木に変えることが問題なのかどうか、それを、美的な問題と、倫理的な問題にわけて考えましょう」
って議論です。
で、この文がある第5章2節「プラスチックの木の美的質」でやっている議論ってのは、美的な問題を扱ってます。


西村はここで、
「プラスチックの人工樹木でも、よくできたレプリカで見た目変わらないんなら、美的価値は同じでしょ」
って考える人たちへの反論をおこなっています。
その反論の具体的な中身は、もっとあとで見るとして、その文脈を踏まえると、先ほどの引用文のポイントは次のように言えます。
〈プラスチックの木はまずは美的に悪いよ。なぜなら、プラスチックの木では、自然の樹木と同じような美的経験はできないからだよ。〉
先の引用文はこういう議論の流れをつくるものなのですね。


はい。
で、重要なのは、「なんでプラスチックの木では自然の樹木と同じような美的経験はできないの?」って部分になります。
ヽ(`Д´)ノ「精巧なレプリカができたら、見た目まったく同じなんでしょ!見た目で判別できないんなら*2、経験も一緒になるじゃん!」
はい。そう考えたあなたは、ちょっと待って考えて欲しい。



「カレー味のカレー」と、「それとまったく同じカレー味のうんこ」を同じように食べるんですか?*3、と。



ヽ(`Д´)ノ「べつに、関係ないよ!俺気にしないもん!」こういうひとも、よくいます(わりかし多い)。
ただ、ここでいくらあなたが「気にしないよ!」と力説しても、やっぱり差はあるのですね。
嫌がる人は嫌がりますし(たまにですが、喜ぶひともいるでしょう)。
ただ、いくら気にしないって言いはる人も、喰ってるときに「それ実はわたしのウンコなんだ。さっきトイレでしてきたの(ハート)」って言われたら、ふつうギョッとします。
そして、最終的に食うか食わないかはさておき(そしてそこに見出す価値の高低はさておき)、ここに体験として違いがあるのは、ほぼ誰もが認めると思います*4




その「違い」はどこから来るのか。
単純です。
われわれは、物事を観賞するとき、見た目(もしくは味)だけで価値判定をしているわけではないからです。
われわれは、ほとんどの場合、「そのモノがいったい何なのか」を念頭に置きながら観賞しています*5
絵画を観賞するときは、それが「絵画」だと認識しながら見てます。
少女漫画のヒロイン見て「かわいい!」っていうときは、それが「マンガに描かれた女性」だと認識しながら見ているわけです。だからわれわれは、その子の目がデカくても、変に思わないのですよ。


山形氏の引用している文、

「そもそもプラスチックの木は、それがプラスチックの木<である>かぎり、たとえ完全なレプリカだとしてもその非美的で形式的、感覚的な面から見ても自然の木とはまるで違っており、それがひとをぎょっとさせ狼狽させるのである」(p.172)

この一文で、西村が言おうとしていることは、そういうことです。
当の対象を「プラスチックの木〈である〉」と認識してるときは、それを「自然の樹木〈である〉」と認識しているときと、観賞体験が決定的に異なりますよ、というわけです。
対象のカテゴリー把握がまったく違う。



ヽ(`Д´)ノ「カテゴリー違っても、こんなに似てるんだから、観賞体験もう同じになるでしょ!」
こう主張してくるひとは、もうちょっと頑張れるかもしれません。哲学的センスはありそう。
でもこのプラスチックの木のケースでは、あまり適切な反論ではありません。
「自然の樹木」と「プラスチックの人工の木」では、そこに備わる歴史がまったく異なるからです。

「渓谷の岩と、同じ材質からなるその完全なレプリカの場合でも、岩のかたちや表層の肌合いに見られる非美的特徴は、それをけずった途方もない長さの雨風や侵食の痕跡を見せているが、レプリカが見せるのは岩を加工した人間の「アルス〔術、技〕」の痕跡であり、それが自然の岩の非美的特徴をもつことはできないし、そこにひとは、レプリカをつくった職人の精巧な手技に対する「繊細」で「とぎ澄まされた」美的質を見るかもしれないが、それは自然過程の悠久の時を象る岩に対してわれわれが反応する美的質の経験とはまるで違っている。」(p.173)*6

「自然の樹木」というカテゴリーで把握されるものには、「悠久」などの評価をすることができますが、「人工のレプリカ」にはそういう評価はできません。逆に「精巧な」とかの評価を自然の樹木に与えることもできません。
こうした差は、どれだけ見た目が同じになろうとも、埋まるものではありません。
重要なのは認識における差ではなく、その対象が置かれるカテゴリーの差なのです。
なので、「人間が見分けられないほど精巧なレプリカができたらどうするの?」って反論は、反論にはならんのですね。




ここまでくると、山形氏の書評の最後の「こんなものを書く人が東大の教授センセイですか。」って一文が痛々しいのですが、まぁそのへんの辛口批評はこの方の芸風なので、つっこまないでおきます。以上。




ああ、最後に、一応もしかしたら万が一、ということで山形氏をフォローしておくと、
山形氏は
「物理的に判別できないものは、美的性質も同じになる」と考えているのかもしれません。
これへの応答は、その「判別できない」をどう捉えるかによって二通りにわかれます。
(1)「カテゴリーが違うけれども、見た目に差がない」という風に捉えるならば、もう上記の議論でその立場は退けられます。この立場にまだ固執するんなら、もうすこししっかりした議論が必要になります。かなり苦しい立場ですが、まぁやりたい人は頑張ってください。。
(2)「カテゴリー的にも判別不可能」というのであれば、美的性質は同じになりえますが、その場合、「それがプラスチックの木<である>かぎり」という西村の限定の外に出る話なので、西村への反論にはなりません。その場合、もう「プラスチックの木」とは見てないでしょ。



あと、山形氏が西村を「素朴実在論」とか「「自然」信仰の垂れ流し」とか言ってますが、このへんも山形氏がなに言いたいのかよくわからんです。
山形氏が「自然観なんぞ捨てて、見たまんまのものを観賞しろ!」って強い態度に出るんなら、それならそれでちゃんと議論してほしいですね。
自然観捨ててしまったら、「悠久」とか「崇高」とかの自然美的な価値をどう考えるんだか。
とはいえ、こっち路線で突き進むなら(だいぶ苦しい立場ですが)、それはそれで応答して議論するに値します。
ただ、いまのままでは、たんに「垂れ流し」にすぎません。





以下、ついでにお勉強のために、すこし補足(宣伝)しておきましょう。
今回の話、美学にちょっと詳しい人は、ダントーの議論を思い出したでしょう。
アーサー・ダントーがウォーホルの《ブリロボックス》を例に出しながら、不可識別者論法というのをしています。
・見た目が同じブリロボックスが二つあります。
・ひとつは芸術作品で、もうひとつは芸術作品ではありません。
・その違いはどこから来るのですか?



こういう話が気になる人は、この本を読みましょう。奇しくも同じ西村氏の本ですが。はい、ステマです。
こういうとき、ほかの人の本挙げたいんだけど、なかなか良いのないんですよね。あったら誰か教えてください。


ただ、この本の議論ももうちょっと古いです(だってもう20年ちかく前の本なのよ。)
もう少ししたら、こういう議論たっぷりしてる分析美学の教科書の翻訳を出すので、もうすこし待って!
いま頑張って翻訳進めてるから!
はい、宣伝でした。お後がよろしいようで*7



では。

森 功次

*1:あぁまたか、と思ってしまったことは確かですが、それでも山形氏のようなひとに、この本を手にとっていただけたのは、一美学者としてはありがたい事だと感謝しております。

*2:山形氏は「人間の分解能レベルでは区別がつかないプラスチックの木ができたら?」と言ってます。

*3:これは松永くん(@zmzizm)がよくつかう例です。秀逸ですね!

*4:ひとつ重要なのは、ここで議論の問題になっているのは、「あなたの好み」ではなく「その物の価値」だ、という点です。「同じだ!」って言いはる人は、「俺だけじゃなくて、誰にとっても同じはずだ!」と言わなきゃいけないんですが、そんな無理筋な主張しますか? するならそれはそれで興味深い主張なので、もっと話聞かせてー。

*5:ここで〈観賞対象の「カテゴリー」認識が「つねにある」〉と考えるか、〈たまにはカテゴリー抜きの美的観賞もある〉と考えるかは、論者によって別れます。ザングウィルは後者。

*6:こういうふうに引用のすぐあとに西村はちゃんと「議論」をしてるんですが、山形氏は「ちがうとしたら何がちがうの? そうした議論や考察はこの本には皆無。」と言うわけです。こまったなー。

*7:西村本のフォローに加え、刊行予定本の宣伝もしたので、仕事の遅さを多めに見ていただけるとありがたいです。仕事遅くてほんとすいません。>K草書房のひと