昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

「あんた!ケータイ小説ばっかり読んでないで、マンガでも読みなさい!」

という、お母ちゃんの説教もありうる世の中になってきてますね。
最近、ネット上でケータイ小説についての議論をいくつか読んだのでちょっと考える。
(ちなみに『恋空』はちょこっとだけ読んだ。)



これとかコレとか参考。
「恋空」の不幸
http://www.heiwaboke.com/2007/08/post_1048.html
ケータイ小説 - Wikipedia




ケータイ小説論争について、


主に批判側の批判点は
・内容、ストーリーの乏しさ
・表現の拙さ


これらは主に、既存の純文学と比べての批判。



肯定側
・新しい表現方法
・読みやすい
・泣ける(笑)


肯定のポイントは、「メディアの特性からくる新しさ」。あとは単純に、個人的な体験を基にした印象批評が多い。




現状から考えると、ケータイ小説のほとんどは内容が中高生向きのものになってしまっているので、批判側の主張することも分からんではない。
ケータイ小説級の短い文章しか読めず、複雑な構造の文章を放り出すようなガキンチョがたくさん育つ環境は、確かに何とかした方がいい。(大江の小説が国語の問題で出されると、ほとんどの中高生はお手上げ状態なのだ。)


ただし、それらの批判が「ケータイ小説」というジャンルそのものを否定できるかというと、また話は別だ。



ジャンルそれ自体が持つ「特性」という点から考えてみよう。
そもそもケータイ小説の弱点とされる「文章の短さ」というのは、メディアの特性(画面が小さい、一行が短い)から「要求」されるものであって、必ずしも文章を短くしなければいけないというわけではない。これははじめに指摘しておく必要がある。
「一文の短さ」は、読みやすくするという観点から、「採用」されているだけのである。


それでも現状としては、短い文章と改行が溢れている。
これは事実として認めよう。
だが、「文章の短さ」は「表現それ自体の弱点」へと直結するのか?
必ずしもそうではない。
近松門左衛門の『曽根崎心中』はどうか?
さらに言えば、我々は世界一短い定型詩を、世界的な芸術にまで発展させた民族であることを忘れてはならない。
(この点ではヒップホップの領域は面白い。SHING02の「星の王子様」やTHA BLUE HERBの「路上」では、短い文章で一つの世界が出来上がってる。スチャダラパーの功績はやはり大きい。)
YouTube



要するに、一文の短さは「メディアがもたらす制約」でありはすれ、「弱点」ではない。




そのことを踏まえたうえで、もう少しケータイ小説の特徴を考えてみよう。


よく言及されるのは「持ち運びやすさ」「気軽さ」である。(バックライトがあるので暗闇でも読めるといった指摘もある。)
ただし、これは文庫本も大して変わらない。


以下、他にいくつか思いついた特徴を挙げる。



・デジタルかつモバイル機種という特徴を考えるならば、
 「コピペ可能」という点に注目すべきかもしれない。
 例えば、
 「一見よくわからない文章だが、メモ帳にコピーペーストして5文字ごとに改行すればあるメッセージが!・・・」
 ということも可能。
 ただし斜体や太字は使えない。
 「絵文字」は今のところひとつの特徴になってるが、べつにこれは書物でも可能。



「横書き」
 これによりアスキーアートも利用可能。
 (ただしこれに関しては『電車男』を先駆けとする「2ちゃん小説」がある。)
 ただし縦書きとは違う表現の可能性は、もう少し考えられるかもしれない。
 

・読み進めるために「頻繁にボタンを押し続けなければならない」という身体性も特徴の一つ。
 ただし、これはテキストゲーム一般(『かまいたちの夜』『ひぐらしのなく頃に』等)に当てはまるものである。
 文章の現れるスピード・タイミングを調整できるという点では、まだテキストゲームの方が可能性の幅は広い。
 音楽や画像の付加という点でも。
 つーかニコニコ動画で小説作ったら面白そうだ。


・ネットから落とすということを考えれば、「更新が頻繁に可能」
 さらには「気軽に幾つかの作者のものに手が出せる」
 これに「長時間読むのがつらい」という特性をあわせると、やはり詩とかのほうが向いてるのかも、とも思う。





以上、思いつくままにいくつか特徴を挙げてみた。
ケータイ小説も工夫すれば面白い作品ができる可能性は持っていそうである。
ただ、現状として、つまらん作品が多いというだけに過ぎない。
その可能性を無視して、ケータイ小説」=「糞」と判断するのは早急であって、もう少しジャンルの成熟を待つべきではないか。



そもそも現状の読者層を考えると、そのほとんどは中高生なのだ。
マンガ黎明期の手塚治虫が、ホントはめっちゃ絵が上手いのにもかかわらず子供向けの絵を描いたように、現代のケータイ小説家も中高生向きに書かざるを得ない状況なのである。
今求められるのは、大人向けのケータイ小説、それも小説好きの大人を引き込むくらいの魅力をもった作品だ。
どの芸術にも当てはまることだが、魅力的な作品が観賞者を育成するのであり、メディアの発達にはそういった革新的作品が必要不可欠なのだ。
漫画だって黎明期は「そんなもの読んでる暇あったら小説でも読みなさい!」と言われていた。
「いい大人が漫画なんか読んで・・・」とも。
そんな中、漫画家たちは頑張ったのだ。
永島慎二は漫画を芸術化しようという夢を見ていた。
吉田秋生の『BANANA FISH』は男子を少女漫画の世界に引き込んだ。
弘兼憲史の『人間交差点』は壮年向け漫画を開拓している。
今はマンガは一つのジャンルを確立し、今もさらに発展し続けている。


小説も同じだ。
小説も昔は一部の読者層しか読んでいなかったのだ。
それが今、名誉あるとされる賞のひとつである「直木賞」は大衆文学賞だ。
芸術は、受容者側の成熟と共に発展する。
いつの日か、ケータイ小説も革新的作品によって新たな表現法として認められる日が来るかもしれない。


つーか考えようによっては、今チャンスだよチャンス。
誰か面白いの書けよ。
文学史に名前残せるぜ。
「子供向けだったケータイ小説を、一般芸術にまで発展させた人物」ってな。



追記:
id:Arataくんがさらに「親近性」という特徴を挙げている。

つまり、ケータイ小説を読む経験とは、誰かからの定期的な報告を、メールやブログ、掲示板を通して読む経験と非常に近似しているのだ。次の更新を心待ちにし、物語の進展を断片的に、時間的な段階をおって、携帯の画面を通じて読んでいく経験は、まるで友人からの例えば恋愛報告の経過を見守っているような経験に近いと言える。
http://d.hatena.ne.jp/Arata/20071109/p1


この指摘は面白い。
wikipediaの項目では、「文体」の特徴として親近性が挙げられていたので、僕は特筆しなかったが、id:Arataくんはケータイという「メディアそのもの」がもたらすものとして親近性を語っている。
(これは最近の用語を用いるなら「つながり」や「同期性」という言葉で語ってもいいかもしれない。)
このような見方に付け加えることとして、携帯の発展につれて、その「個人的報告を見る」ツールとしての特徴は薄れつつあるということを指摘しておこう。
つまり、ケータイのパソコン化だ。(俺もスマートフォン欲しい)
もちろん逆に、より親近性を増すケータイの発展もありうる。
突き詰めてメディアの特性を語ろうとするならば、携帯機種ごとの読書感を考察してもいいかもしれない。
しかし、それでもケータイというメディアそれ自体がもたらす「親近感」が消える事はないだろう。