昨年も公開ワークショップをやりましたが、今年も大妻で美学イベントをやります。
5人の研究者から、美的な徳(Aesthetic Virtue)をテーマに話題提供をしてもらい、その後、全体でディスカッションします。
どなたでもご参加いただけます。

公開ワークショップ「美徳、美学的観点から」
2025年6月14日(土)13:00~
場所:大妻女子大学 A棟A250教室
開催方式:対面形式(事前登録不要・参加無料)
プログラム
昆佐央理(北海道大学・博士後期課程)
「美的証言における徳:美的生活のかたちを巡って」
難波優輝(立命館大学・客員研究員/慶應義塾大学・訪問研究員)
「いつ遊ぶのをやめるべきか?:遊びの美徳とやめどきの美学」
藤本心太(一橋大学・博士前期課程)
「美的経験の価値を卓越主義の観点から考える:Attention, Emotion, and Perfection」
松井晴香(無所属)
「言葉のわからなさを信頼する:徳美学からの詩的価値試論」
村山正碩(一橋大学・博士後期課程)
「「意識の堕落」に抗う:芸術、徳、共同体」
要旨
美的証言における徳:美的生活のかたちを巡って
昆佐央理
本発表のねらいは徳美学の観点から美的証言の議論への応用可能性を示すことである。
美的証言とは、「雨が降っている」のような通常の証言に対し、「小津の映画『東京物語』は素晴らしい」のような美的な事柄に関するものを指す。美的証言をめぐる議論においては、通常の証言と美的証言を受けた際の振る舞いの違い、美的証言のパズルに集約される。具体的には、「雨が降っている」のような通常の証言と「小津の映画『東京物語』は素晴らしい」のような美的証言を比較すると、直接経験なしに美的証言を通じて美的判断を下せると見做し難いとする我々の直観を指す(e.g. Meskin 2004)。
従来の美的証言の議論では、美的証言を受けて通常の証言と同様に知識が得られるかという認識論的な色の強い問題の立て方をされることが多かった。この風潮の中、美的証言の議論をめぐる二つの陣営、楽観主義(e.g. Meskin 2004)と悲観主義(e.g. Hopkins 2011)の論争が続いてきた。前者は通常の証言と同様に美的証言からも知識が獲得できると主張し、後者はそれを否定する。
Nguyenはこの楽観主義・悲観主義論争の調停を試みるために、一歩進んで美的証言の使用に着目する。彼は美的証言を通じた美的判断に問題がないとされる状況と、美的証言の使用に頼るべきでないとされる状況両方が存在することを指摘する(Nguyen 2017)。美的証言の使用への抵抗は、他者の美的証言に頼らずに自身で美的判断を下すという自律性の要求であるとNguyen(2019, 2023)は主張する。Nguyen(2019, 2023)によれば我々の日常的な美的実践はゲーム的な活動であり、自律性の要求はゲームルールの遵守である。
しかし、自律性という側面のみからでは美的証言の使用にまつわる動機や目的などをうまく説明できないと発表者は考える。本発表では、Nguyenの議論が説明し難い主体の動機や目的に焦点を当てる徳美学を採用することで、美的証言の議論を捉え返す。徳美学から美的証言の議論に応答することは、我々の広範的な美的生活のあり方を再確認することにも繋がるだろう。
参考文献
Hopkins, Robert. 2011 “How to be a pessimist about aesthetic testimony.” The Journal of Philosophy, 108(3): 138-157.
Nguyen, C. Thi, 2017, “The Uses of Aesthetic Testimony”, The British Journal of Aesthetics (1950-), 60(239): 19–36. doi:10.1093/aesthj/ayw089
Nguyen, C. Thi., 2019, ‘Autonomy and Aesthetic Engagement’, Mind, 129(516), pp. 1127–56.
Nguyen, C. Thi., 2023, ‘Art as a shelter from science’, Aristotelian Society Supplementary Volume, 97(1): 172–201. doi:10.1093/arisup/akad007.
Meskin, Aaron, 2004, “Aesthetic Testimony: What Can We Learn from Others about Beauty and Art?”, Philosophy and Phenomenological Research, 69(1): 65–91. doi:10.1111/j.1933-1592.2004.tb00384.x
いつ遊ぶのをやめるべきか?——遊びの美徳とやめどきの美学
難波優輝
アラスデア・マッキンタイアの『美徳なき時代』では、物語的に生きることが美徳ある生き方だ、という物語的徳論が論じられている。その後、人生の意味の哲学や美徳の議論では、物語的な生と美徳の結びつきは当然視され、重要なものとみなされている。
だが、物語という「Play」だけが、生の善き「Play」だろうか。物語以外の「Play」もまた美徳の名にふさわしいと私は考える。そこで本発表では、人生の善き遊び方として、物語的徳のみならず、ゲーム的徳、パズル的徳、ギャンブル的徳、おもちゃ的徳という、多元的な「Playの美徳」=「遊びの美徳」があると主張し、それぞれの美徳の内容を美的徳の観点から明らかにする。
第一に、物語・ゲーム・パズル・ギャンブル・おもちゃ遊びの「遊びの中」での美的徳を整理する。物語をうまく読む・語る美的徳からはじまり、おもちゃ遊びをうまく遊ぶ美的徳までを論じる。
第二に、人生を生きるときに、これらの遊び方を実践するとはどういうことかを明らかにする。人生を物語として生きること、ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃ遊びとして生きることとはどういうことかをはっきりさせる。
第三に、人生で遊ぶときに、これら5つの遊び方をいつでもどこでもすべきかどうかには議論の余地がある、と指摘する。マッキンタイアの主張するような「いつでも物語化すれば善き人生になる」という立場を批判し、私たちは、あるタイミングでは、特定の遊び方を差し控えるべきであり、自分が愛好する遊びを、人や場所に適うようにやめることもまた、美的徳でありうる、と主張する。
つまり、人間は、遊びという根源的な態度で世界と関わるのだ。
美的経験の価値を卓越主義の観点から考える―Attention, Emotion, and Perfection
藤本心太
美的経験とは(少なくとも典型的には)、ある対象の美しさや醜さなどを味わう経験である。このような経験は、主体が対象の美しさなどに一方的に心を打たれる、受動的な経験であると考えられがちであった。このような従来の傾向に反して、美的価値をめぐる近年の議論には、美的経験を行う主体の能動的側面を強調し、美的経験をある種の達成[achievement]として捉えようとする試みがある。
一方、美的価値をめぐる議論とは異なる文脈で、Gwen Bradfordは達成一般の価値を考察している。Bradfordは、達成の価値を語るのに適した立場として、卓越主義[perfectionism]があるという。卓越主義とは、大雑把にいえば、人間に特徴的な能力(意志[will]や合理性[rationality]、運動能力など)を発揮・育成することに価値を見出す立場である。つまりBradfordによれば、達成の主な価値は、意志や合理性などの能力が発揮されることにある。
本発表は以上の二つの文脈に動機づけられている。すなわち、もし卓越主義が達成の価値を語るのに適しており、かつ美的経験に達成としての側面があるならば、卓越主義は美的経験の価値を語るのにも適しているのではないか。これが本発表の動機である。
Bradfordによれば、達成一般において発揮される能力は意志と合理性である。では、美的経験においてはどのような能力が発揮・育成されるのか。意志や合理性といった能力は、美的経験において全く発揮されないわけではないものの、美的経験にはあまり似つかわしくない。本発表では代わりに、美的経験に対してこれまでなされてきた特徴づけを頼りにしながら、注意[attention]と情動[emotion]の能力が美的経験において特別な仕方で発揮・育成されると主張する。私が取り組む中心的な問いは次の二つである。卓越した注意や情動の能力とはどのようなものであるのか、そして美的経験においてはどのような仕方でこれらの能力が発揮・育成されるのか。また本発表では、卓越主義が美的経験の価値をめぐる議論にもたらす他の示唆として、美的経験の相対的価値(偉大な美的経験と些細な美的経験の違いはどこにあるのか)についても論じる。
卓越主義を明示的に支持する論者は現代では多くないものの、歴史的には多くの哲学者を惹きつけてきた、固有の魅力を持つ理論である。卓越主義の観点から美的経験の価値を考察することは、美的価値に対する新たな見方を提供するだろう。
言葉のわからなさを信頼する——徳美学からの詩的価値試論
松井晴香
一篇の詩歌に目を落とす。難しい詩だ、わからない。書き手は何を言いたかったのだろう、と何度も読み返してみても、やっぱりわからない。一方で、その詩から価値ある何かを引き出せそうだということなら——その「何か」の内容まではわからないにしても——わかることがある。一見意味のわからない言葉は、日常的なコミュニケーションの規準からすると好ましくないはずなのに、詩として価値づけられることがあるのはなぜなのか。この問いに答えることが本発表の目標だ。
ひとつの道は、Peter Lamarqueにならって詩的実践のルールに訴えることだ。Lamarqueによると、詩的実践に参加する受け手には、〈詩のわからなさを鑑賞し、価値づけるべし〉というルールに従って詩を読むことが求められる。日常的なやりとりの場でなら、意味のわからない言語表現は、伝達の用をなさないものとしてかえりみられないだろう。ところが、詩の実践においては一転し、〈むしろそうした言葉のわからなさこそに詩的な価値があるのではないか〉と受け手は想定する。いやしくも詩的実践に参加するなら、受け手もこのルールにのっとって詩を読み、それに伴う鑑賞経験が満足をもたらす程度に応じて詩を評価するべきだとされるのだ。
Lamarqueの与える説明は、たしかに詩的実践の一面を捉えてはいるが、問題を氷解するにはいたっていない。というのも、〈詩にみられる言葉のわからなさを価値づけることは、なぜ詩的実践のルールとされているのだろうか〉と問う余地が残るからだ。Lamarqueが教えてくれるのは、ルールが存在するらしいということ止まりで、ルールがなぜ存在するのかまでには立ち入られていない。しかしもう一歩踏みこんで、〈私たちをそうしたルールに従わせる何かが詩の鑑賞経験のうちにはあり、それゆえ言葉のわからなさを価値づけることはルールたりえているのだ〉とは考えられないだろうか。
本発表で主張したいのは、言葉のわからなさを価値づけることが詩的実践のルールたりえているのは、受け手が書き手に寄せる信頼ゆえである、ということだ。わからない詩を発した書き手を、受け手は書き手として未熟だとみなすこともできれば、わかりやすさを捨ててでも自分の信じるところを表現しているのだと信頼することもできる。後者の態度をとるとき、受け手は詩を、書き手の抱える思考や情動、経験の誠実な表出として受けとる。こうした信頼の態度を通じて受け手に促されるのは、目の前の詩をわからないとただ退ける拒絶の姿勢ではなく、わからなさを丸ごと受け入れる受容の姿勢だ。信頼にもとづくこの受容を通じてこそ、わからない言葉にも詩的な価値が授けられる、と論じたい。
「意識の堕落」に抗う:芸術、徳、共同体
村山正碩
劇作家・美学者である山崎正和が指摘するように、私たちはある瞬間に自分が何を感じているかについて、つねによく理解しているわけではない。たとえば、ある人に恋いこがれていることまではわかっていても、その感情の特殊性を把握するには至らないことも少なくない。言葉やその他の媒体によってそれを表現してはじめて、私たちは自分が抱いた感覚をきめ細かに理解することができる。この点に着目し、自らの美学理論を構築した哲学者に、R・G・コリングウッドがいる。彼にとって、表現という営みは職業芸術家だけが従事する専門的な活動ではなく、人間の心的生活の中心を占める活動の一つであり、私たちが自らの経験のあり方に気づくために不可欠なものである。
ときには、私たちは表現の営みを途中で放棄し、自分が何を感じているかについていまだ不十分な(しばしば歪んだ)理解に落ち着くことがある。コリングウッドはこれを「意識の堕落」と名づけ、非常に問題視している(彼の診断では、意識の堕落の蔓延はファシズムの台頭と無関係ではない)。意識の堕落は、自分がそれを抱いていると見なすことに私たちが抵抗を覚えるような感情、たとえば、反社会的・非道徳的感情においてとくに生じやすい。
本論では、意識の堕落の何が問題なのかを示し、それに抗うにはどうすればよいかを探究する。コリングウッドによれば、意識の堕落によって、私たちは自分の感情に対処できなくなるほか、理論的・実践的推論の前提に誤りをもちこんでしまう。ゆえに、私たちは意識の堕落に抗う必要があるが、どうすればよいのか。私は二つの方法を検討する。一つは、徳の涵養である。誠実さ、勇気、謙虚さ、ネガティブ・ケイパビリティなどの徳を養うことは、表現の営みを成功裏にやり遂げることに間違いなく貢献する。しかし、この方法には難点もある。徳は一朝一夕で身に着くものではない。また、それは資源を要し、運に左右される。そのため、単に徳の涵養に訴えるだけでは、意識の堕落に抗うには頼りない。
この点に鑑みて、本論は共同体に目を向けたい。私たちが身を置く共同体には、自分では表現し損ねてしまうような感情を、代わりに表現してくれる人がいるかもしれない。そして、その作品に触れることで、私たちはその感情について理解を深めることができる。この点を示すために、私は画家のフランシス・ベーコンに注目する。彼はいくつかの重要な点で有徳とは言いがたい人物だが、それにもかかわらず、もしくは、それゆえに、ある種の反社会的感情をその絵画によって巧みに表現している。私は、彼の作品をめぐる批評的言説を参照しながら、意識の堕落に抗ううえで、芸術共同体がいかなる役割を果たすかを明らかにする。最後に、議論の含意を示すために、私はこれまで注目されてこなかった表現の自由の価値に注意を促し、また、共同体の成員が反社会的・非道徳的感情を(コリングウッド的な意味で)表現し、公表することを抑制することに慎重になるべき理由を提示する。
こちらは告知ビラ&要旨のpdfです。
Dropbox - 公開ワークショップ「美徳、美学的観点から」告知・要旨.pdf - Simplify your life
なお昨年同様、お手伝いの人を雇う余裕はないので、案内の掲示とかは校舎入口くらいにしか出しません。
部屋番号とかは確認できるようにしておいてください。