昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

『分析美学入門』正誤表

申し訳ないことに、ロバート・ステッカー『分析美学入門』(森功次訳、勁草書房)にはいくつか誤植が見つかっております。
ご購入くださった皆様には心からお詫び申し上げます。


出版社のページにも誤植表がアップされますが、アップデートが遅れる可能性もありますので、最新版を逐一アップしていきます。
些細な誤植がほとんどですが、中には内容に関わる深刻なものもいくつかあります。
お読みになる方は、その前に一度こちらの誤植表をチェックしていただければと思います(前とその前のエントリに貼ったのとリンク先は同じです)。

→ 『分析美学入門』正誤表



売れて増刷かかれば誤植も直せるのですが、なにぶんこの値段なのでそんなにバカ売れは見込めないでしょうから、増刷かかるのはいったいいつになるやら・・・。


では。
森功

『分析美学入門』解説エントリ2、分析美学とは何か、その二

『分析美学入門』解説記事、その2です。


今回は前回の続きとして、分析美学の60年代以降の発展をざっと(ほんとにざっと)書いていこうと思います。
 60年代以降、分析美学は様々なトピックで議論を発展させていきますが、なかでも大きな発展をみせたのは、「芸術の定義」についての議論でした。これは64年のダントーの論文「アートワールド」が、ひとつの契機として挙げられます。(そこに至るまでの細かい流れもあるのですが、そのへんは『分析美学入門』の第五章を読むべし。)
 私の見るところ、この芸術の定義の議論が発展したひとつの重要な要素は、芸術の価値についての議論と「芸術」というカテゴリーについての議論をちゃんと分ける、という姿勢が美学者たちの間でしっかり共有されたことだと思います。ダントーやディッキーは「価値が低い芸術作品も芸術ですよ」という考え方をしっかり保ちながら、芸術の定義を練り上げていきました*1
 また、グッドマンは芸術作品を記号論的に説明しようと、独自の理論を練り上げていきます。74年のLanguages of Artは70年代の重要文献です。とりわけ画像についての議論は今でも重要。
 フィクションについての議論もしだいに活発化していきます。サールらは言語哲学の議論を援用して虚構的な言説についての議論を始めました。この辺は言語分析・概念分析って感じがモロにしますが、より美学っぽいトピックとして、78年のウォルトンの “Fearing Fictions”という論文以降、フィクション観賞中の観賞者の反応はどのように説明されるべきか、という議論も活発化していきます。
 80年代以降は、ウォルハイムのArt and Its Object (1980) 以降、音楽の存在論や画像知覚の議論が盛んになりますし、環境美学も盛り上がってきます。
 こうした多様なトピックをみると、もうこの時期の美学者たちは批評言語の分析や芸術に関わる概念の分析ばかりをやっているわけではない、ということに気づくと思います。現代では、認知科学形而上学の議論を取り入れつつ、さらに多様な議論がなされています。「分析美学」という言葉を避けてこの分野を指すとしたら、「美学理論や批評文の中の概念・論述構造を分析することからスタートし、その後そこから標準化された「主張や根拠を明確に示す」議論スタイルを軸に据えて、近隣分野の知見をとりいれつつ発展してきた、主に現代英語圏を中心に行われている美学」とでもなるでしょうか。
 とはいえanalytic aestheticsという言葉が早々に使われなくなるわけではありません。98年のoxfordの『Encyclopedia of aesthetics』には、まだ"analytic aesthetics"の項目があります。また、1999年にノエル・キャロルが書いた教科書では、本の最初で「哲学はさまざまな実践をあつかうことができる。分析哲学者ってのは、とりわけその実践を可能にしている概念を明確化するんだ」(大意)みたいなことが強調されてます。また、2004年に出たPeter Lamarque and Stein Haugom Olsen (ed.), Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Traditionでもまだ、タイトルからお分かりなように、この分野を指すためにAnalyticという語が用いられています。ちなみに、この本の序文ではAnalyticという語の意味合いについていくつか述べているので一読をおすすめします(amazonの「なか見検索」で読める)。
 
 このように「分析哲学」vs「大陸哲学」という区分は、けっこう根強かったのですが、最近は、分析哲学の中でも「概念分析ってそもそも何やってんの?」ということが問題になってきたり、大陸系の論者たちがこの分野で活躍するようになってきたりして、もう「分析哲学」「大陸哲学」という言葉はやめよう、そしてもう「分析哲学」という言葉もやめよう、という傾向にあるようです。同時に「分析美学」という言葉も最近はあまり聞かなくなってきたように思います。
 それでも本書のタイトルを『分析美学入門』にした理由は、あとがきにもすこし書きました。まだこの区分はある程度生きているし、他にこの分野を指すよい用語が見つからないからです。「現代美学」も、「英語圏の美学」も、それはそれでいろいろ問題があるのですね。まぁ誰かが何か良い言葉を編み出せば、もしかしたら言葉遣いが一気に変わって、そのときは本書は「分析美学」という語を冠した最初で最後の本になるかもしれません。


 最後に一つコメントしておくと、美学には、本書で扱っている「分析的」な美学以外にも、多様なスタイルがありますし、私としても、べつに美学への取り組み方はいろいろあって良いと思います(というか私自身、専門はフランスの哲学者サルトルの芸術論です)。問題はただ、この「分析美学」の方面で発展していた議論が日本にこれまで紹介されなさすぎた、という点です。本書が英語圏の議論をしっかり紹介することで、日本における美学の議論が、その多様性を失うことなく活性化すること。これが私の願うことのひとつです。
 先ほど挙げた、ラマルク&オルセン編のアンソロジーの序文にいいことが書いてあったので、すこし訳しておきましょう。編者たちは、各議論の扱うトピックの狭さとか、細かいテーゼを厳密に擁護したりするちまちました議論をみたひとは〈分析美学とはなんと野望少ない衒学的な分野なんだ〉という印象をもつかもしれない、と述べたあとでこう書いています。

だがこの印象は間違いである。たしかに分析美学者たちの議論は進みがゆっくりであるように思われるかもしれない。だが、それは細部に気を使うことが高く評価されているからである。分析哲学者たちは互いにあからさまに批判しあっているようであるが、この議論に参加するものたちの間にはある種の共同体的感覚がある。それは、批判を通じてこそ発展はある、ということであり、その発展はしばしば〈一般的テーゼに対する思いもしなかった反例〉という形でやってくるのである。

 訳した自分で言うのもなんですが、『分析美学入門』は、このこれまでちまちま前進してきた分析美学の議論の発展を、丁寧に、しかもかなり最新のほうまで紹介する本という点で、とても良い本だと思います。(おお、かなり宣伝くさい)


 次回以降は、各章の議論について解説とか、本書に書かれていないその後の議論の展開の補足などを書いていこうかな、と思います。

続き

なお、誤植表は随時アップデートされております。本書を読まれる前にぜひいちどご確認ください。→ → 『分析美学入門』正誤表


*1:正直、ダントーはそんなに「定義を練り上げた」って感じしないのだけども。まぁダントー自身、はっきりした定義出してもないしね。その点、ディッキーはこねこね定義練り回して、少しずつ定義を洗練させようとがんばってた。えらい。あと、ディッキーとダントーの違いとかは、これまできちんと日本には紹介されてなかったので、変な誤解をしているひとも多いです(「ダントーは、学芸員や批評家が芸術かどうかを決めると言った」は間違いです)。ここ大事なので、興味ある人は第五章七節を読んでください。