昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

「分析美学は薄っぺらい」という意見について思ったいくつかのこと

 先週末に美学会九州大学)に参加してきたんだが、そこで(相変わらず)何人かの方から「分析美学ってなんか薄っぺらいよね」的なコメントを聞いたので、akadaさんのこの記事を読み返していた。

哲学の初学者にありがちな間違い - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ


 分析美学や分析哲学に対しては、一方の方々は「薄っぺらい」「深みがない」「当たり前のこと言ってるだけ」と感じ、もう一方の(とくに専門的にやってる)人たちは「議論が着実に洗練されていってるとても意義のある分野」だと感じている、というギャップがしばしば見られる。じっさい『分析美学入門』を翻訳したあとしばらく分析美学に対する批判や感想に耳をすましていたこともあって、「薄っぺらい」的な批判はたくさん聞いてきた。面と向かって直接言われたこともしばしばある。このギャップはどこから来てるんだろうか、という点は前々から気になっていた*1んだが、最近ちょっと自分なりに考えがまとまってきつつあるので、ブログに記しておく。


 本エントリの大枠の結論は、上に挙げたエントリでakadaさんが書いてたことと同じになると思う。つまり、「議論の前提が共有されているかどうかで、学術的意義についての印象が結構変わる」ということだ。特にさまざまな理解の仕方がありうる用語については、議論の前提が共有されていないと、ちゃぶ台返しのような批判が飛んでくることが多い(「「自由」ってそもそもそんなものじゃないと思うんですよね」とか)。「自由」や「知識」といった概念は人によって理解の仕方がさまざまあるからこれはしょうがない部分もある。分析美学の領域だと、意図intentionやら感情emotionといった語について、この種の批判はたまに聞く。
 曖昧な語についてはちゃんと論述の最初に(漠然とであれ)定義しておくべき、というのはたしかに学会発表などの場ではとても大事なテクニックで、これは発表者が論文の序文なり第一節なりでしっかりやっておかなければならないことだ。定義を疎かにしているせいで余計な質問をくらって学会発表での質疑応答時間が大幅に削られる、というのはよく見かける。これは必ずしも質問者が悪いわけではない。発表者が議論の前提をちゃんと説明しておくべきなのだ。
 ただ前提を全てちゃんと説明するのはけっこう大変なので、多くの人は「これくらい知っててくださいよ」というレベルで話を終わらせ、本題に入ることになる。これもしょうがない。発表時間は限られてるし、学会発表なんてそもそも専門家の集まりの場なのだから、一から初学者向けに説明する必要はない。この辺のバランスは、発表場所と聴衆の顔を見つつコントロールするしかない。*2


 しかし考えてみよう。用語の定義が不十分という失敗はどのような分野でもありえることで、要は、分析哲学系の議論だけに限ったことじゃないはずだ。なぜ分析系には「薄っぺらい」的な批判がよくなされるのだろうか。この疑問はまだ解消されない。


 最近たどりついた結論のひとつは、分析系の議論はとりわけ「その結論に至るまでの議論の精査」に力を入れるんだけど、その議論精査という作業の意義がまだあまり理解されてないんじゃないか、というものだ。要は、結論だけ読んで「薄っぺら!」と思ってしまう人が結構いるんじゃないか、と思われるのである。とりわけ美学会という場は、半分以上は美術史や社会学系の実証的な研究をしている人たちで、この分野のひとたちと分析系の人たちとのディシプリンのギャップはけっこう大きい。実証系の人たちは、自分で足を運んで調査していかに興味深い画像や事象を引っ張り出してくるか、とか、既存の作品についていかに新しい解釈を提示するか、といったところで勝負しているのだが、そういう観点から見ると、分析系の議論のどこに面白み・有り難みがあるのかは、いまいち分かりづらいのだと思う。本エントリは、そうしたギャップを少しでも埋めようとするものだと思って読んでもらいたい。
 

 以前ニック・ザングウィルが立命館で連続講義をしていたとき、「分析哲学ってのはマーシャルアーツみたいなものだ」と言っていた。この喩えはけっこう秀逸だと思う。つまり、攻撃がこう来たら、こう防御する。防御できたら、こうやって反撃する。その応酬のやりとりをしっかり見ていくところに分析哲学の面白さがあるんだ、ということをザングウィルは言っていた。この種の面白さ、味わい深さは、勝ち負けだけ(つまり結論だけ)見ようとする人にとっては、あまり見えてこない部分だと思う。
 とりわけ分析哲学という分野は、議論の応酬をより洗練されたものにしようとする(具体的な作業としては、そこで使われている曖昧な語を整理したり、反論がうまくいってるかどうかをチェックしたり、互いの言葉遣いに齟齬がないかを確かめたりする)作業に、重要な学術的意義を認めている。「結論は変わらないが、それを支持する論法をちょっとだけ改定する」といった論文は分析哲学の分野にはけっこうあるが、そうした論文が成り立つのも、議論の整備が重要な学術的意義として認められているからだ*3


 美学の領域に話を限っても、分析美学の学者たちは、それなりに長い時間をかけて議論の種類を整理してきた。たとえば、「○○は芸術だ」といった言葉遣いをするときに、価値の話をしているのか、分類の話をしているのか。また、「芸術」や「美的価値」という言葉をつかう際にどのような定義を採用しているのか。こうした議論の前提や枠組みをしっかり分類しようと努力してきたところに分析美学の大きな意義はあるし、この努力のお陰でその後の議論がすごくやりやすくなっているという事実認識はもう少し共有されていいと思う。この部分の努力をあまり認めない人からは「そんなの人文系の学問にとってアタリマエのことじゃん」としばしば言うのだが、そういう人には現代の論文と20世紀前半の論文とを比べてみてほしい。「芸術」や「美」といった言葉の用語法がどれだけ混乱していたかがよく分かるだろう。20世紀後半に英語圏の美学者たちが、議論の枠組みを整えてきた点はもう少し評価されていいはずだ *4。そして今も「芸術的価値」や「美的経験」といった概念についてその作業は行われている(もちろん「芸術の定義」も未だに問題になる)。概念整理や論法の精査という作業は、とても大事な作業だし、まだやるべき作業はたくさん残っているのだ。

 こうした種類の学術的意義を頭においておくと、論文や著作の読み方もちょっと変わる。先に述べたように、分析系の論文を読むときに、結論部分で言われている知識だけを得ようとするのはあまり良い読み方ではない。(じっさい、要旨だけではその面白さが伝わりづらい論文はけっこうある。)むしろ「この論証はうまく行っているのか」とか「同じ言葉を使っているのだけど別の概念にすり替わっていないか」などをチェックしながら、そして「この論文にはどこか反論できるところはないか」という姿勢で(そしてチャンスがあれば読書会などでみんなで議論しながら)読んでいくと、この種の学問の面白さが見えてくると思う。*5
 この面白さを味わうには、さまざまなテーマの論文を散発的に読むよりは、ひとつのトピックに絞って論文をいくつか読んでいくといいと思う。「議論が洗練されていく」ということがどういうことか、よく分かるはずだ。そしてそうした作業から学ぶことができるさまざまな論法(とりわけ、どういう論法はどこに弱点があるか)や概念区分は、他の書物を読むときにとても役立つ武器になるだろう。これは、たんに結論を学ぶことから得られる知見とは、また別種の知見だ。


 最後に、個人的経験に基づく、根拠の無い蛇足的な意見をひとつ述べておこう。分析系の論文を楽しく読むことができるかどうかは、分析系の論文を読むゼミや読書会に参加した経験があるかどうかにかかってるのかもしれないな、とたまに思う。わたし自身、大学院に入って(それも博士課程になってようやく)初歩的な読書姿勢を身につけたくらいで、学部時代はこうした論文の読み方があることをまったく知らなかった。友人たちと読書会めいたものはやっていたが、それもあまり効率的ではなかったと思う。とりわけ優秀な先輩・友人たちと一緒に分析系の論文を読んだ経験は、わたしのその後の読書姿勢を大きく変えた(特に、論文の「良さ」「上手さ」にはさまざまなものがあり、その中には分析哲学系特有の評価指標がある、という視点を得られたことは大きい)。もちろん優秀な人は一人でも分析系の論文を楽しくガシガシ読んでいくことができるだろうが、分析系の論文をこれから読もうとする人は、もしチャンスがあれば、早めのうちにゼミや読書会(できれば参加者の発言が活発なやつ)に参加して、論文の読み方を身につけておくといいのではないか。


*1:もしこの批判が本当に正しいのだとしたら、「分析美学の人たちはただの馬鹿の集まり」ということになるんだが、世界中でこれだけ多くの人がこの分野で努力している事実をみると、それはちょっと考えにくい

*2:ただ、あまりに斜め上からの質問を受けた時には「その観点はごもっともでしかも大事なものなんですけど、今日はそういう話じゃないんです」的な返し方をしてもいいと思う。ただ、この返し方をするには自分の議論の前提が抱える長所と弱点をはっきり認識しておく必要があるので、実はこれはけっこう高級テクニックだ。

*3:なので分析美学のような学問では薄い入門書が書きづらい。「芸術とはこのように定義されます」「美的価値とはこのようなものです」などと結論だけ網羅的に示しても、あまり意味が無いからだ。

*4:そして、大陸系の美学者の議論を見てると、まだまだその整理が共有されてないのではないかと感じることはよくある。大陸系の論者が「芸術とは○○だ」という言い方をしながら、実質的には「芸術の価値あるポイントは○○という点に見て取られるべきだ」という価値や意義の話をしているだけ、ということはけっこう多い。分析美学の論文で、この辺の言葉遣いに注意を払わないということはまずない。

*5:『分析美学入門』では、ステッカーも序文で「どうぞ読者の方々も、各章で提示されるさまざまな議論に、自分の立場をはっきりさせながら参加してほしい」(p.3-4)と書いていた。