昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

『分析美学入門』解説エントリ1、分析美学とは何か、その一

『分析美学入門』解説エントリです。
今日から気分が乗ったら、ちょこちょこと書いていくことにします。

まずは「分析美学」という言葉について、解説しておこうと思います。
訳者あとがきにはつぎのように書きました。

 原書のタイトルは直訳すれば「美学と芸術哲学」であるが、日本では英語圏の美学を指す言葉として「分析美学」という言い方がよく用いられているので、本訳書のタイトルも『分析美学入門』とした。まずはこの呼称について、いくつか述べておこう。
 本書であつかわれているのは、厳密にいえば、「分析哲学の伝統を受け継ぎつつ主に英語圏で行われている美学」である。タイトルに「分析美学」という語を用いたものの、じつは最近ではanalytical aestheticsという語はあまり用いられなくなってきている。これには理由がいくつかある。ひとつには、「分析的哲学」「大陸系哲学」という区分けが近年見直されつつある、という点が挙げられる。また最近の英語圏の哲学は、認知科学現象学など他分野の知見を多数取り入れつつ発展しており、もはや概念や言説の分析だけをやっているわけではない、という点もある(他には、「いまや英語圏の哲学こそが「ザ・哲学」だから、もはや「分析的」という形容詞を付さなくてもよいのだ」と言う人もいるかもしれないが、わたしとしては、それはやや偏狭な意見だと思う)。そして逆に、対立軸として「大陸系美学」という呼称を用いるのも、厳密には正しくない。フランスでは、Roger PouivetやJacques Morizotらの美学者が分析的なスタイルで仕事をしているし、ドイツ語圏でも、分析美学の知見を活かした著作が数多く出版されている。
 とはいえ「分析美学」という呼称に意味がなくなったわけではない。現在もこの語であるていどの分野が画定できるのは確かだし、議論のスタイルを示す上で、いまだその区分は一定の意味を有している(ちなみに、分析美学ではなく「現代美学」という語を提案する者もいるが、本書で扱われるような分野を指して「現代美学」と呼ぶことは、それはそれで仏独伊や非西洋地域の美学を無視することになってしまうだろう)。以上のような事情から、本書のタイトルには「分析美学」という名称を用いることにした。どうかこれは、分析哲学の伝統を受け継ぎつつ主に英語圏で行われている美学、というゆるやかな範囲を指すものと理解していただきたい。

今読み返すとこの文章は、本書タイトルにおける「分析美学」の意味をやや言い訳めいた感じで説明しているだけで、「分析美学」という言葉自体についてはっきり説明できてるわけではないですね。あんまりいい解説でもない。まぁいいです。言いたかったのは、分析美学って今となっては明確な定義とかあんまりないし、はっきりした境界が確定できる学術分野でもないよ、ということ。でも、現代のアガンベンとかランシエールとかナンシーとかベーメとか、そのへんの「大陸系」(この言葉もあまりいい言葉ではないのだけど)の哲学者とはかなりスタイルの異なる議論をしてますよ、ということでした。英語圏でも、美術史・美術批評よりのロザリンド・クラウスとか、マイケル・フリードとかは「分析美学」には入りませんし、最近のシュスターマンとかももう微妙なラインかと思います。



さて、じゃ「分析」って何なの?というところが問題となるわけですが、じっさい私も、「分析哲学」という概念の成立史についてはそんなにくわしく解説できるわけでもありません。なので、このエントリではこのあと、「分析美学」の成立史のようなものを解説しておきます。



 「分析美学」という言葉で指されるような学術的動向がいつ頃固まってきたかは、諸説あります。美学における言語の役割に注目した最初期の人としてOgden & RichardsのThe Meaning of Meaning, 1898をあげる人もいます。そのつぎには、だいたいエイヤーやスティーブンソンが挙げられる気がします。彼らは主に倫理学の分野で「善さgood」とは何かについていろんな理論を練り上げていたのですが、その知見を美学方面にも適用しようとしていたわけですね。1950年にMax Blackが論文集を編んでいるのですが、スティーブンソンは「Interpretation and Evaluation in Aesthetics(美学における解釈と価値づけ)」という論文を書いています。またほかに20世紀前半の英米圏美学の動向を挙げると、デューイのプラグマティズム的美学や、ロジャー・フライ、クライヴ・ベルなどの形式主義Formalism、シュザンヌ・ランガーの記号論的美学などが発達していった、と言えるでしょう。


 50年代以降、はっきり「分析美学」と呼べるような仕事がなされていきます。フランク・シブリーFrank Sibleyは図書館にこもってひたすら批評文を読みあさり、そこで使われる評価語について分析しました。 シブリーの“Aesthetic Concepts(美的概念)”(1959)は今でも必読の超古典論文です。シブリーが主に美的判断について研究を進めた一方、ビアズリーMonroe C. Beardsleyはもっと包括的な一大美学理論を構築しようとしました。彼の仕事では、Wimsattと1946年に書いた共著論文「The Intentional Fallacy(意図の誤謬)」が日本でもちょくちょく紹介されて有名になってますが、ビアズリーは他にも美学業界でかなり大きな仕事をしていたのですね。ビアズリーの明晰な論述は、当時の美学界に大きく衝撃を与えたらしい。
 この時期この周辺にいた美学者たちは、日常言語学派のながれをうけて、「批評の言語使用を分析する」というところから出発していました。ビアズリーなどは一時期、美学とは批評の哲学なのだ、とか言ってたりします。が、私が思うに、むしろ重要なのは、その中でしだいに培われてきた論述の姿勢だと思います。これまで美学を混乱させる現況であった「曖昧な言葉づかい」をできるだけ避けよう、という姿勢がこの時期に強く共有されたのですね。1966年に川野洋はこう書いています。

「分析美学は美学理論や芸術批評の言語分析を仕事とするもので、いわば「メタ美学」「メタ批評」とでもいわれるにふさわしく、それ自身は、芸術や美意識についての新しい知識をもたらしたり、それを拡げてくれるいわゆる美学ではないし、また芸術運動の実践理論である批評でもない。むしろ分析美学は、それらにおける言語使用の形式的交通整理をおこなう、それ自身は経験的になんら実質的内容をもたない論理的手続きのマニュアルにすぎないものである。しかし経験科学としての美学や芸術批評運動が真に効果的な力を発揮するためには、このような高い立場からする理論そのものへの方法論的反省がつよく要請されるのである。」(川野洋「分析美学」『講座美学新思潮、第3巻、芸術記号論』竹内敏雄監修、美術出版社、126頁)

 初期の「分析美学」観をよく表してます。いまでも日本ではこのように「分析美学」を理解して、「あんなもん役に立たん、つまらん」という方々もけっこういます。


 だが60年代以降、また英語圏の美学はもっと多方面に手を伸ばしつつ議論を発展させ、大きな成果を生んでいきます。長くなったので今回のエントリはここまで。次回は60年代以降の動きについて、書きます。

続き


なおすでに誤植がいくつか見つかっておりますので、正誤表をupしておきます。
→ 『分析美学入門』正誤表