昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

【発表要旨追記】公開ワークショップ「ネタバレの美学」を開催します。11/23(金・祝)@大妻女子大学

ネタバレ現象について考える公開ワークショップ「ネタバレの美学」を開催します。
11月23日(金・祝)@大妻女子大学です。

趣意文

楽しみにしていた映画を見る直前、友人が物語の肝心な部分をバラしてきたら、、、あなたは怒っていい。
「何すんだよ! これから見ようとしていたのに!」
この怒りはごくまっとうなものだと思われるし、このように怒っている人を見ても私たちは何も驚かないだろう。
批評ブログや作品紹介記事などの冒頭に「ネタバレ注意(spoiler alert!)」の文字が書いてあることはよくある。


とはいえ、現代のポピュラーカルチャーの宣伝・公開の仕方をよく見ると、「おいおい、これネタバレじゃないのか!?」と文句を言いたくなるようなケースは多々ある。
そして驚くべきことに「ネタバレはそこまで悪いものではない」「別に物語の筋をバラしてもらっても構わない」というネタバレ擁護派も一定数いる。ネタバレされてから見たほうが、作品をよく観賞できるし、作り手の工夫をよりしっかり見ることができる、というのだ。
これは、ネタバレ批判派からしてみれば驚くべき(事によっては許しがたい)ことだ。


ネタバレ擁護派も(よほど思いやりにかける人でないかぎり)ふつうは嫌がる人に無理やりネタをバラしたりしないので、ネタバレ批判派とネタバレ擁護派との間に深刻な喧嘩が起こることはあまりない。
だが擁護派と批判派では、その倫理観や芸術観が大きく異なっている。


そしてこの対立は、きちんと考えようとすると、数々の謎を呼び込むことになる。

  • ネタバレの「ネタ」とは結局何なのか?
  • ネタバレという現象はいかなる文化的前提の上に成立しているのだろうか?
  • ネタバレは本当に悪いことなのか? 悪いとしたら、それはどのような種類の悪さなのか?
  • ネタバレ擁護派は何を守ろうとしているのか?
  • ネタバレ批判派は何に怒っているのか?

ネタバレとは、ごく日常的で誰もが知っている事柄でありながらも、さまざまな視点から考察を要求する、非常にハイコンテクストな現象なのだ。



ネタバレとはこのように非常に興味ぶかい現象であるのだが、ネタバレに関する研究はあまり多くない。とりわけ、哲学・美学・倫理学の分野では、ネタバレに関する研究はほとんどない。
本ワークショップでは、まず哲学・美学を専門とする若手研究者に話題提供をしていただいた上で、このネタバレという非常に興味深い現象について、来場者を含むフロア全体で多面的に検討してみたい。
この現象を解きほぐしていく中で、私たちのそれぞれが暗に採用していた価値観がしだいに浮かび上がってくるだろう。




ワークショップ「ネタバレの美学」
2018年11月23日(金・祝)13:30より 
於:大妻女子大学 千代田キャンパス 本館F棟632 
キャンパスマップ http://www.otsuma.ac.jp/about/facilities/chiyodacampus


登壇者
高田敦史「謎の現象学: ミステリの鑑賞経験からネタバレを考える」  https://researchmap.jp/at_akada/
渡辺一暁「なぜネタバレに反応するのか」  https://researchmap.jp/pubkugyo/
森功次 「観賞前にネタバレを読みに行くことの倫理的な悪さ、そしてネタバレ許容派の欺瞞」  https://researchmap.jp/morinorihide/
松永伸司「ネタバレは悪くて悪くない:ネタバレ論争折衷派」  https://researchmap.jp/zmz/

※後日、発表要旨も追記していきます。


コメンテーター兼ディスカッション・モデレーター
稲岡大志 https://researchmap.jp/hiroyuki.inaoka/



主催:現代美学研究会
共催:フィルカル  http://philcul.net/



※本ワークショップは大妻女子大学 戦略的個人研究費(S3035)「理想的観賞者説の拡張をつうじた日常的美的経験論の構築」(代表研究者:森功次)の助成を受けたものです。
問い合わせ先:森功次 morinorihideあっとotsuma.ac.jp


登壇者、コメンテーターともに哲学・美学系の研究者になってしまいましたが、ほんとうは文学研究者とか、観賞者研究とかやってる人とかにもコメントいただけるとありがたいなーと思ってます。あと作品の作り手、制作会社側の人とかにも、コメントや実践紹介などしていただけるととてもありがたいですね。「一言言いたい!」という方がおられましたら、ぜひご連絡ください。
多くの人が何かしら意見を言いたくなる問題だと思いますので、当日はディスカッション時間を多く取りたいと思ってます。
専門家、非専門家を問わず、多くの方のご来場、コメントを歓迎します。もちろん無料です。



※2018年11月22日 発表要旨を追記しました。

発表要旨


「謎の現象学: ミステリの鑑賞経験からネタバレを考える」
高田敦史

 世の中には、特定のネタバレ情報を拒絶する人もいれば、どんな情報でも特に気にしないという人もいるだろう。私は万人が避けるべきネタバレ情報があるとは思わない。だが、「多くの人がこの種類のネタバレ情報を避けている」という情報の種類を特定することは可能だし、その背後にある理由を明らかにすることも可能だと考える。さらに「私はネタバレされても気にしない」という人であっても、「作品鑑賞にあたって、そういうポイントを重要視する人がいることは理解できる」という状態になることも十分可能だと考える。
 この発表では、ミステリの鑑賞経験の分析を通じて、多くの人が特定の種類のネタバレ情報を避ける理由を明らかにする。ミステリを対象にするのは、ネタバレが忌避される典型的なジャンルの一つだからである。空中戦になりすぎないよう具体的な作品の鑑賞経験に引きつけて議論したいという意図もある。
 さらに、発表のより大きな背景としては、二つの主題が関わっている。一つには、「美的価値と規範性の微妙な関係」という主題がある。これは美的義務や美的理由というラベルのもとで議論されてきた問題であり、カント以来の伝統的テーマではあるが、この発表では、ネタバレを巡る倫理的問題と、特定のネタバレ情報を避ける美的理由の関係を整理することで、この問題に触れる。ただし、この発表では、基本的に倫理的問題については論じない。
 もう一つには、「鑑賞という行為を観賞者の能動的関与として捉える」という関心がある。こちらは、受容美学や読者反応批評といった分野で論じられてきた問題だ。私は、能動的鑑賞というアイデアを導入した上で、それによって多くの人が特定の種類のネタバレ情報を避ける理由を説明する。能動的鑑賞のすべてがネタバレに関わるわけではないが、いくつかのものは、鑑賞者が特定の情報を持たないことを必要としているため、特定の能動的鑑賞を重要視する鑑賞者は、特定の種類のネタバレ情報を避ける理由をもつ。
 後半では、アガサ・クリスティーの『オリエント急行の殺人』を取り上げ、アラン・ゴールドマンのミステリ論に依拠しつつ、ミステリの鑑賞に具体的にどのような能動的鑑賞が含まれているのかを指摘する。合わせて、近年のネタバレの心理学研究についても紹介する予定だ。



「なぜネタバレに反応するのか」
渡辺一暁

 ネタバレ接触に伴う私たちの反応を観察すると、そこには倫理的理由がひそんでいるように思われる。ネタバレ接触を忌避するひとの反応は、「単に私の趣味・好みとそぐわないから、私の目に入るところではしないでくれ」という以上の、強烈な反応である場合があるように見えるのだ。それはたとえば、(「ネタバレ注意!」のような)特定の警告文言をネタバレ情報に追加することを要求したり、ネタバラシに及んだ人間をコミュニティから排除したり、叱責したりという形で現れている。
 しかし、ネタバレ接触への反応が、たいした理由のない快不快をこえた倫理的理由への反応だとすると、簡単に説明がつかない現象もある。たとえば、警告文言をつけるとネタバラシの「悪さ」が消えるのはなぜだろうか。また、自発的なネタバレ接触には何も非難の余地がないように思えるが、自発的であれば「悪さ」が完全に帳消しになるというのも説明を必要とするだろう。さらに、ネタバラシが倫理的に悪質な行為だというわりには、それを受け手側で回避する手段はあまり講じられない。最後に、ネタバラシへの否定的反応になんの倫理的理由も見出さないひとが一定数いる。
 この状況への答えかたは3とおりある。1つめは、ネタバレ接触への忌避など否定的反応を支えるのは、倫理的理由ではなくせいぜい美的理由でしかない、と主張すること。2つめは、自発的なネタバレ接触もやはり悪い、と主張すること。本発表では第3の道を検討する。すなわち、倫理的反応にあまり典型的とはいえない特徴を説明できるような、特殊な倫理的理由があるかどうかを探る。この探究は、倫理的理由などないという「懐疑論」への応答の形をとることになる。
 本発表の答えは、認識論者シャーコスキの唱える「認識的徳としての統合性」に訴えたものになる(Scherkoske 2013)。ただし、答えと同様にこの発表が力点を置くのは、ネタバレをめぐる倫理的対立をときほぐすことである。ネタバレが倫理的によい・悪いのどちらかに軍配を上げるのではなく、ネタバレ接触への否定的反応を抱くひとも抱かないひとも共通してアクセスできる倫理的考慮事由を提供することが、本発表のねらいの1つとなっている。そしてそれは、ネタバレ問題をこえてさまざまな倫理的対立についても、新しい角度から検討する余地を与えると思われる。
 Scherkoske, G. (2013). Integrity and the Virtues of Reason: Leading a Convincing Life. Cambridge: Cambridge University Press.



「観賞前にネタバレを読みに行くことの倫理的な悪さ、そしてネタバレ許容派の欺瞞」
森功

 本発表では、観賞前に自発的にネタバレを読みにいくことは倫理的に悪い、と主張する。その倫理的悪さの源泉として、「作者への敬意に欠ける」「アートワールドを腐敗させる」という二つの点があることを指摘しよう。
 次に、ネタバレ接触を許容する者たちの意見を検討する。ここでまず検討するのは「作品とは公的に自立した存在だ」「ネタバレはよりよい観賞を可能にする」「ネタバレは有意義な取引である」という3つの論法である。わたしはこの検討をつうじて、ネタバレ許容派たちが陥りがちな自己矛盾的欺瞞を指摘したい。それは、ネタバレ許容派たちは作品の芸術的価値を重視するような態度を取りながらもその裏で芸術の重要な価値を無碍にあつかっている、というものである。その後で、「作品全体を見るべきだという芸術上の慣習に従う必要はない」というもうひとつの論法を検討する。この論法は芸術性をそもそも無視するものであるので、特別な対応を必要とする。本発表では、こうした態度も結局は、得られる恩恵を支えている環境や歴史に配慮を払わないという、倫理的に望ましくない態度であることを指摘したい。
 最後に、現代の商業主義的アートワールドに蔓延するネタバレ許容の姿勢と、そこに起因するいくつかの悪さを指摘し、ネタバレ問題に関わる意見対立の出処のひとつを示唆する。



「ネタバレは悪くて悪くない:ネタバレ論争折衷派」
松永伸司

 ネタバレはアリかナシか? こういう聞き方をすると答えは二派に分かれてしまう。しかし実際には、ネタバレに対する立場はもっと複雑で多様だろう。この意味ではナシ、この意味ではアリ、といった仕方で細かい立場のちがいがあるはずだ。
 この発表ではまず、いくつかの分類軸にしたがってネタバレのあり方を分類する。そのうえで、それぞれのネタバレのタイプについて、どういう前提のもとでならそれが悪い(または悪くない)と言いたくなるのかを検討したい。この整理によって、ネタバレに対する立場(アリ派にしろナシ派にしろ)にどのようなバリエーションがありえるのか、またそれぞれの立場の実質的な対立点や一致点がどこにあるのかが浮かび上がってくるだろう。


ちなみに私自身は以下のような立場です。
おそらくかなり極端な立場なので、当日は多くの反論が寄せられるだろうと覚悟してます。





なお、ネタバレWSにつながるトークイベントの記録が『フィルカル』最新号に載ってます(宣伝)。
トークイベントのディスカッション部分の記録はフィルカルのHPに掲載されてます。