昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

2018/3/16(金)日本大学、ワークショップ「美的経験、再考!」(要旨つき告知)

要旨が出そろったので、あらためての告知です。


日本大学でワークショップを開催して頂けることになりました。
ワークショップのタイトルでは「美的経験」という語がつかわれてますが、テーマは美的判断とか美的価値とかそのあたりをざっくり含む話題だと思って頂ければよいかと思います。

以下、正式な告知文です。

日本大学文理学部人文科学研究所
第13回哲学ワークショップ
「美的経験、再考!」


来る3月16日に、日本大学文理学部にて、分析美学に関するワークショップ「美的経験、再考!」を開催いたします。
興味をお持ちの方はぜひご参加ください。


日時:2018年3月16日(金)13:30〜17:30


場所:日本大学文理学部3号館5階3504教室
   京王線 下高井戸/桜上水 下車 徒歩10分
    (https://www.chs.nihon-u.ac.jp/access/)


プログラム
 第1部 提題、および提題内容に関する確認の質疑 13:30〜16:10
 休憩  16:10〜16:25
 第2部 質疑と討論  16:25〜17:30
 懇親会


提題者および題目(発表順)
 森功次「美的選択:伝統的美学理論からの逸脱とその影響」
 松永伸司「スノッブのなにが悪いのか」
 青田麻未「観光者・居住者の疎外――環境美学における美的経験論再考」
 高田敦史「美的価値と行為の理由」


提題要旨


1.森功次「美的選択:伝統的美学理論からの逸脱とその影響」
 近年、Yuriko Saito, Thomas Leddy, Sherri Irvinといった日常美学(everyday aesthetic)の論者たちは、「美的なもの(the aesthetic)」について再考を促している。日常美学の基本姿勢は、伝統的美学の考察領域――たとえば芸術作品や自然美――の外、たとえば料理、洗濯、インテリア、といった暮らしのさまざまなところに美的なものを見出そうとするところにあるが、そのさい論者たちは、たんに「美的なもの」の従来の基準を日常生活の事象に当てはめるだけでなく、伝統的美学が提示してきた「美的なもの」の基準に変更を迫っているのだ。
 だが日常美学の論者たちのアプローチも、よく見るとさまざまである。美的対象の領域を拡張しようとする者もいれば、美的判断の基準を緩めようとする者もいる。そこで本発表ではまず、日常美学の論者たちが伝統的美学の何を切り捨て、何を取り込もうとしているのか、その見取り図をまとめてみたい。この作業が提出するマップは、美的経験を再考しようとする本ワークショップのための、足がかりともなるだろう。
 その作業を経た上で、本発表は、より特定的なテーマとして、日常美学を後押しする論者の一人であるKevin Melchionne (2017)が近年の論文で考察している「美的選択(aesthetic choice)」という事象について着目したい。われわれは日常生活の中で、明日はどの映画を見ようか、今日はどの服を着ようか、とさまざまな選択・決断をしている。そうした選択・決断が、どのようなメカニズムで行なわれ、どのような意味を持つことになるのか。これが「美的選択」というトピックにおける基本的な問いである。Melchionneの論文は行動経済学などの知見を用いながら、美的選択について考えるための各種枠組みを提案しており、非常に示唆に富んでいる。
 本発表で検討したいのは、Melchionneの概念・枠組みそのものについてというよりは、彼の議論が伝統的な美的なものの議論をどのように拡張し、何を諦め、その影響・余波として何が説明できなくなっているのか、である。美的選択は日常生活のさまざまなところにありふれているが、われわれが普段行なっている美的選択は、もはや「対象の同定のしかた」、「主観的感覚へのコミットのしかた」、「普遍的妥当性の要求の強さ」といった点で、伝統的な美的経験・美的判断の基準からは逸れている。(そのため、もはや人によってはこういった選択に「美的」という形容詞を用いることに抵抗すら覚えるかもしれない)。
 この検討を経て、私が提出したい主張は、以下のようなものである。
 美的選択は、その積み重ねによって、たしかに選択者の個性を示すが、その個性の示し方は、伝統的な美的判断が示す個性の示し方とは重要な点で異なっている。美的選択から個性を読み取るさいには、怠惰やいわゆる「美的アクラシア」といった現象を考慮せねばならない。


2.松永伸司「スノッブのなにが悪いのか」
 古典である、伝統的である、高級である、高尚である、有名な批評家が良いと言った、流行りである――等々の事実自体に美的判断が動機づけられるケースは少なくない。この種の判断をしがちな人々は「スノッブ=俗物」と呼ばれ、その傾向性は「スノビズム=俗物根性」と呼ばれる。スノビズムのあり方は、権威主義的なものだけではない。主流やエスタブリッシュメントに反しているという事実に美的判断が動機づけられることもまた、スノビズムの一種である。スノッブ的判断は、ふつう自分の社会的地位を持ち上げるという目的のもとに、美的に関連しない事実にもとづいて対象に美的価値を帰属する。この意味で、それは不純で不当な美的判断である。
 スノッブに関する美学的な問題はいくつかある。スノッブであるとは、正確にはどのようなことなのか。スノッブ的判断と正当な美的判断は、実際に判別できるものなのか。スノビズムはわれわれの美的実践のなかで悪徳と見なされるが、それはどんな悪さなのか。それは擁護不可能なものなのか。
 発表の流れは以下の通り。第一に、Kieran(2010)の議論に沿いながら、スノッブ的判断と正当な美的判断の判別が容易ではないことを示す。両者は、行動的にも内観的にも見分けがつきづらい。第二に、スノッブ的判断の積み重ねが正当な美的判断につながるケースがあることを示す。ゲシュタルト知覚はふつう美的判断にとって関連ある材料である。そして、評価はしばしば知覚の体制化に影響を与える(源河 2016)。実際、そうした評価的態度は、われわれが新しく出会った文化になじみはじめるときにしばしばとる態度だろう。第三に、正当な美的判断につながるスノッブ的判断とそうでないスノッブ的判断を、行動の点である程度判別できるという仮説を提示する。Lopes(2017)によれば、美的判断のやりとりにおける不同意の特徴のひとつは、不同意に際して理由づけの論争がしつこく続く傾向にあるという点にある。美的判断の理由づけは、ふつう知覚的証明による裏づけを目標にしてなされる(Sibley 1965; 源河 2014)。正当な美的判断につながるスノッブ的判断とそうでないスノッブ的判断のちがいは、ある程度までは、この理由づけの論争に対して積極的な態度をとるかどうかのちがいとしてあらわれる。この仮説が正しいとすれば、たとえ正当な美的判断とスノッブ的判断を見分けることが困難だとしても、スノッブ的判断のうちに徳あるものとそうでないものを見分けることは可能である。
 以上の議論は、スノビズムが基本的に悪徳であるという考えを維持しつつ、スノビズムを部分的に擁護するものである。それは、純粋な美的判断が交わされる理想的鑑賞者の王国には関係ない話だろうが、スノッブが満ちあふれるわれわれの社会の美的実践にはなじむものだろう。


3.青田麻未「居住者・観光者の疎外――環境美学からの美的経験論再考」
 本発表は、英米系環境美学environmental aestheticsに立脚しつつ、美的経験の諸相について考察する試みである。環境美学とは、自然であれ都市であれ、環境一般におけるわれわれの美的経験を理論的に説明しようとする分野である。ところがこの課題を遂行するにあたって、同分野はひとつの問題点を抱えている。というのも、初期の環境美学、たとえばカナダの美学者アレン・カールソン率いる一派は、芸術作品の美学からその理論的枠組みの多くを借りてくることによって、環境を美学の中に位置づけなおす傾向にあった。すなわち、議論対象としては新たに環境を取り上げたと言えても、美的経験を説明する理論として何か新しいものが提示されたわけではない。芸術作品以外がもたらす美的経験の内実を説明する試みは、むしろ近年環境美学から派生した日常美学everyday aestheticsにおいて活発に議論されている。しかし日常美学の成果もまた、結局のところ議論対象を絞り込まずに普遍的に適用するのは難しいものである。そこで本発表は、人間環境を議論対象とし、そこでわれわれがどのような美的経験をするのか考察することで、美的経験という事象について環境美学こそが付け加えることのできる論点を探る。
その際に無視できないのは、われわれがある環境において取りうるステータスの多様性である。わたしは上野において居住者であり、博多において観光者である。そしてその逆の人もいるだろう。このようなステータスの違いは、当該の環境における美的経験にも違いをもたらす。この点に関して、これまでの環境美学は十分な注意を払っていない。むしろ、居住者と観光者の美的経験は、それぞれ異なる理由において平凡な美的経験、あるいは浅い美的経験とみなされることさえあるのだ。
そこで本発表は、第1節を居住者、第2節を観光者に割り当て、どちらの節においてもまずそれぞれの美的経験が「主流の美的経験」とはみなされない理由を整理する。その結果として、居住者にせよ観光者にせよ、①そもそも美的経験の対象objectがない/不適切である、②美的経験に基づく美的判断が下されていない/その人自身によってなされていない、という2つの事柄が批判されていることがわかる。本発表は、これらの批判が不当である、あるいは部分的にしか当たらない、ということをそれぞれの節で確認する。最後に第3節を設け、①美的経験の対象とは何でありうるのか、②美的経験と美的判断の関係はどうなっているのか、という2つの問いに関して、居住者・観光者のケーススタディを通して言えることを提示する。


4.高田敦史「美的価値と行為の理由」
 美的価値は、道徳的価値や認識的価値と同じく、価値の一種であると見なされている。当然ではないかと思われるかもしれないが、実のところ、これは通常思われるほど自明な主張ではない。この主張が疑わしいとまでは言えないにしろ、美的価値がれっきとした価値の一種であると示すことは、それほど簡単な仕事ではないからだ。美的価値と行為の理由のつながりを示すことは、この仕事の重要な部分である。およそ何かが価値であるためには、それは規範的なものでなければならず、また、規範的なものであるためには、それは行為の理由を与え、後続する行為をガイドするようなものでなければならないからだ。美的価値はいかなる形で行為の理由を与えるのか。それが示されないかぎり、美的価値がどのような価値であるか明確になったとは言えないだろう。
 本発表で検討の対象となるのは、美的価値の規範的側面として捉えられたかぎりでの美的理由(美的価値が与える理由)である。美的理由の典型例は「あの映画はおもしろいから観に行く理由がある」「この絵は美しいから保存する理由がある」といった形で現われる。また美的理由に関する問いとして、(1)外延の問い、つまりどんな美的理由があるかという問いと、(2)源泉の問い、つまり美的理由の規範性は何に由来するかという問いを区別できる。
 これらの問いが明示的に論じられることは多くはないが、美的価値に関する主流の立場である美的快楽説は、両者の問いに答える説明としても機能する。美的快楽説によれば、美的価値をもつものは、非道具的価値をもった経験(美的快)を与える。従って、(1)美的快を最大化するような行為を選ぶ理由があり、(2)美的理由の規範性は、美的快の価値に由来するといった形で、両者の問いに答えることができる。しかし、本発表では、美的快楽説の説明が問題を抱えることを指摘したい。快楽説の難点のひとつは、不適切な美的判断もまた快を伴うため、快に訴えることでは美的価値の規範性をうまく捉えることができないという点にある。
 また本発表では、美的快楽説のオルタナティブとして、ドミニク・ロペスが擁護するネットワーク説を検討する。ネットワーク説によれば、美的価値の規範性は、様々な領域における美的エキスパートの達成の価値に由来する。ただし、ネットワーク説が美的価値の規範性、とりわけ源泉の問いにうまく答えられるかという点については、疑問の余地があるだろう。


告知文は以上です。
3人目の青田さんが環境美学の話もするので、予習本としては『分析美学入門』の第一部(環境美学、美的経験、美的性質)あたりがいいんじゃないでしょうか。
あとは「分析美学は加速する」の解説文とか。(提題者は皆このブックフェア関係者です)




なお、翌日3月17−18日は早稲田大学でフッサール研究会もあるのでそちらもどうぞ。
『ワードマップ現代現象学』の合評会があります。評者が超豪華です。