昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

「おける論文」、「横のものを縦に研究」への批判について

 「自分で一から考える」型の研究を称揚し、「おける論文」「横のものを縦に」系の研究をけなす論調は、人文系の研究ではたびたび見られるし、「反省的に思考する」作業を重視する哲学分野では、数ヶ月に一度聞く話。
 これモチベーションはわからなくもない*1し、自分で考えることそれ自体には重要な意味があると思うのだが、こういう話を聞くにつれ、いつも「一般向けの哲学カフェはさておき、専門家なら先行研究をふまえて議論しましょうね。そうしないと学術的に無駄が多いよ」という論点でオチが着く。ここまでだと大して面白くない話。


 ただ最近は、「日本の」「今の若手」研究者に向って「自分で考える研究のほうがすばらしい」と説教することの害については、一度(というか大事なことなので繰り返し)明示しておいたほうがいいかな、と思うので、ブログ書いときます。


 1.まず「日本の」という部分について。非西洋言語圏の中で、西洋文化の議論を母国語でここまで読める国は少ない。これは先達たちが西洋文化の輸入に勤しんできたからだ。この蓄積は研究の土壌を育てるのみならず、非専門家の人々の教養を向上させることにも役立つ。専門家が海外動向を紹介しなくなったら、学術的土壌は蝕まれ、学問の質が下がるし、異文化理解の水準もぐっと下がるだろう。
 これは単に翻訳サボるなという話だけではない。「おける論文」の蓄積によって日本のカント研究やハイデガー研究、プラトン研究とかは、世界的に見ても質の高い業界になってるんじゃないの? そこもう少し評価しましょうよ、と思う。
 
 2.次に「今の若手」という点に関わる点。今の日本のアカデミック事情を見ていると、年配の先生方は相当忙しそうで、正直言って、よほど能力の有る人でない限り、文献を網羅的に読む作業ができていないと思う。これは各人の能力うんぬん以上に業界の構造的問題だ。そのため、一部の分野では、「たくさんの文献を読み検討する」という作業は若手(念頭に置いているのは学振とその後数年のオーバードクター)にしかできない、という状況が生まれつつある。
 むろん、多くの蓄積を備えた年配の研究者にしかできない大局的な研究もあるのだが、今の日本はそれとは別に「文献バリバリ読む系」の研究を若手がやらねばならない状況になっているのではないか。(もう少し言ってしまうと、場合によってはこれは「大御所先生の素朴な放言に対して、文献証拠を明示しつつその意義/無意義を示していく」という作業になる。これはなかなか大変な作業だが、時間と根気と善意がないとできない。年配のくそ忙しいはずの先生でこういう仕事ができるのは、伊勢田先生クラスの超優秀な人だけじゃないか。)
 「今の日本の」アカデミック界の構造的を見るに、こうした比較検討の作業を若手がやめてしまうと、かなり困ったことになりそう。ただでさえ今後はポストどんどん削られるし、優秀な若者が去りつつある(/去らざるをえなくなってる)んだから、業界的に意義のある地味な作業をやってる若手はきちんと評価しましょうよ、と思います。


 あと「自分で考える作業」は誰でも出来るし、非専門家もKindleなどで出版・発表すらできる時代なんだから、もう専門家に求められる作業って別のところな気がするんですよね、という話もあるがそれはまた今度。

*1:とりわけ歴史的にいろいろ怨念抱えた年配の先生が溜まりに溜まった批判をいうのは理解できなくはありません