昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

ポピュラー音楽の存在論における「トラック」概念について。Jaspmシンポジウムをうけての雑感。

先週日曜日は、Jaspmのシンポで今井晋vs増田聡さんのプロレスめいたシンポ(http://d.hatena.ne.jp/smasuda/20121108)がやってて、行きたかったんだけどまぁ参加費高いし(4000円!)予定もあったので今回は諦めるかー、と思ってたところ、さる徳のあるお方(八田さん@mhatta)がUstreamやってくださったので、それ聞いてたのでした。面白かったです。八田さん、わたし面識ありませんが、あらためて御礼申し上げます。



まぁ基本的な感想はTwitter上ですでに述べたし、今井にもいろいろ感想伝えたので、まぁ今後の研究に期待すっか、という感じだったのですが、

とお書きになってて、まぁ名指しで批判されたわけでもないけど、俺もちょっと公の場でつぶやいちゃった以上、たんにブツブツ言ってるだけど思われるのもちょっと嫌なので、なんかちゃんと書いとくかー、と思った次第。自分の意見を以下、まとめときます。まぁポピュラー音楽の哲学の、プロレス的マッチポンプ状況にちょっと貢献できるかもしれませんしね。*1
一応最初に述べておきますと、あくまで一Ustream視聴者(しかも今井の発表の最初ちょっと聞けてない)の感想です。あと、翌日谷口さん(@taninen)がニコ動でまとめ的なコメントをしてたそうですが、それも私聞けてません。なので、もしかしたら内容かぶってるかもしれません。すいませんが、ご了承ください。



Ustream視聴後、つぶやいた感想は以下です。


以下、補足的に説明していきます。
「トラック」概念をもうすこしちゃんと規定したほうがいい、という点については、シンポを聞いたひとはほぼ同意してくれると思います。おそらく当日、増田さんと今井の理解のしかたはズレてました。しかも当日僕が聞いたかぎりでは、増田さんは「トラック」を「再生音もしくは視聴された音、によって規定されるもの」として理解していたように思われたのですが(、まぁそこは本人にきいてみないと、正確なことはちょっとわかりません。キレキレの増田さんは話すのが速いので、ちょっと全ては追えませんでした。)。
ともあれ、今井のいう「トラック」は音構造タイプなんですね。「音」じゃなくて「構造タイプ」ですよ、ということで重要なのは、物理的対象ではない、という点です。今井の論文をまとめると、これは「録音物の個別の再生音によって例化されるタイプ」と規定されます。これは、個々のCD再生音などをつうじてアクセスされる対象ですが、視聴者の聞き方、感情、聴力などによって規定される対象ではありません。
なんでこんな概念をもってくるかというと、「われわれ聴衆は同じ物を評価している」という点を説明したいからです。「音」だと、各聴取において別々のものですし、「聴取経験」も各自別々です。これらでは「みんなが同じモノについて話をしている」という点が説明できません。評価実践を説明するにはもうちょっと別のもの持ってくる必用があるのですね。そこで美学者たちは、「トラック」という概念を用意するわけです。
まぁ今井のやっている「録音物の個別の再生音によって例化されるタイプ」とか「単一のマスターテープから因果的に派生している」というだけではちょっと規定が不十分な気がしますので、この「トラック」を、ポピュラー音楽実践をうまく説明できるようにうまく規定する必要はあります。それは今後の課題でしょう。僕としては、「1.作者の意図と、2.複製作業前のマスターテープ、の二つに依存する音構造タイプ」ととりあえず言えるかなーと考えてますが、まぁ洗練の余地はあると思います。
でもとりあえず、以下で僕の意見を説明するために、この「トラック」規定をもちいながら、「マスターテープ」「作者」「意図」について、もうすこし話をつづけます。


まずは、「マスターテープ」という概念について。このマスターテープ概念ですが、当日は「マスターテープ」という語で何を指しているのかが、ちょっと噛み合ってなかったように思います。個々の楽器音を録音したものなのか、それらをもちいたミックスダウンしたあとのテープなのか、この辺はもうすこし言葉を用意して、整理すべきだと思いました。この辺の作業には、録音機器の発展史や、現状の音楽実践についての研究が必要になってくると思います。まぁ音楽詳しい人にいろいろ聞くしかないわねえ。すくなくとも、ここを議論する上で「マスターテープ」って言葉だけじゃ足らんことは確かです。
僕としては、トラック概念の規定は「CDなりレコードなりを複製しだす前の最終マスター」でやるがいいんじゃないかとぼんやり考えております。なぜかというと、最終的に公衆に提示される録音物を規定する上で一番よいと思われるから。


ここで、「マスタリングにアーティスト本人が文句つけるようなケースがあるから問題なんだけど。ホントの作品って、最終ミックスダウン前にあるものなんじゃないの」と言われるかもしれません。
でも、僕としては、これってアーティスト本人(ビートルズのメンバーとか)を「作者」と見なすことの弊害だと思うんですよね。ここで上で述べた2の点の説明に移ります。作者概念についてです。
「作品があるなら作者がいるでしょ」というのは、もっともな考えです。当日もチラホラ話題になりながら、あまりちゃんと規定できてなかったのが「作者」という概念なのですね。
これについては、ポピュラー音楽とかはじっさいのところ産業の産物(具体的にはレコード会社の産物)なんだから、ある種の共同制作の産物と考えたほうがいい、というのが僕の考えです。「複製直前のマスターテープ」の制作には、事実、多くの人が関わってます。これはポピュラー音楽を考察する上で押さえておかねばならない重要なポイントのひとつです(もう一個は「録音・複製による、聴取・評価の変化」)。この産業形態を無視してアーティストのみを「作者」とみなすのは、音楽についての典型的言説として認められることではありますし、それはそれで尊重すべきなんですが、存在論で出してくる「作者」はそれとは別に考えた方がいい。ここで「アーティスト本人が認める音こそが作品なんだ」という意見に固執すると、うまく説明できないボーダーラインケースに振り回されることになります。「トラック」という存在を規定するうえでは、むしろ、アーティスト本人だけでなく、エンジニアやプロデューサーその他もろもろを用意したほうが話はしやすいわけです(とくにアーティストとエンジニアの意図が疎通してない場合などを説明するにはね)。要は、文化論における「作者」と存在論における「作者」をちゃんと区別しようぜ、という話です。このふたつの「作者」は必ずしも一致しないのです。


この意見を補足する例をふたつほど。一つ目に重要なのは、最終的に公開される録音物(つまり、アーティスト本人だけでなく、プロデューサーや、マスタリング・エンジニアも含めた人びとの産物)が、われわれの文化の中で、ひとつの重要な評価対象とされている、という事実です。われわれはギターの音の歪み具合とか、音の左右振り分けのバランスなどを評価しています。これらはかならずしもアーティストだけがつくっているものではありません。
もうひとつがリマスター作業です。リマスタリングの作業は、「トラック」をもういちど作りなおす作業、とひとまず説明できますが、これについても、「アーティストの意向の正確な表現」や「ノイズ除去」など、ケースによっていろんな目的があります。ここでもポイントは、ここに関わってくるのはアーティスト本人の意図だけでない、という点です。ノイズ除去や音の左右振り分けは、プロデューサー、エンジニアが勝手にやったりします。

もちろん、トラック概念を規定するにはどのあたりまで作者とみなすべきか、という問題はのこります。今後の課題です。すくなくとも、ここでただアーティストをもってくるだけでは不十分。とりあえずは、最終産物の美的価値に関わる人びとをトラックの「作者」として用意しておくほうがいいだろう、というのが僕のいまの考えです。


たしかに、「どのトラックを本当の作品とみなすべきか」といったことはしばしば問題になります。オーセンティシティの問題ですね。これはこれで重要な問題なのですが、これを考えるためにも、各評価対象をきちんと分類できる存在論を用意しなければなりません。今井が目指そうとしているのは、その作業だったはずです。つまり問題は「作品とは何か」ではなく「さまざまな観賞習慣においてそれぞれさまざまな対象が評価されているが、これを説明するためには、どうやって対象を分類していくべきか」です。
ここで意図はやっぱ必要でしょ、というのが僕の考えです(以下「意図」の話にうつります)。なぜかというと、音構造だけだと、オマージュなのかパクリなのかを説明しづらくなるのですね。(マスターテープを再利用するとか、製作途中でマスターテープが盗まれるとか、いろんなケースが考えられますが)まったく同じ音構造のマスターテープができ上がることは、理論上ありえます。そうしたケースにおいて「その録音再生音を聞いた人がどのトラックにアクセスしてるのか」という点を説明するには、やっぱ意図必要でしょ、まぁ意図でなくとも、すくなくとも「作者」は必要でしょ、と思います*2。トラックを音構造だけで規定すると、「別作者による、同一音構造をもつ二つのトラック」が区別できないのですね。このへんは現代の分析美学ではよく出てくる、基本的な話。


さて、以上を踏まえると、同一トラックのCDヴァージョンorMP3ヴァージョン、とか、同一ソングの別トラックバージョン、とか、いろんな対象が生まれます。どれを一番評価するか、また、どれを作品と呼ぶかは、それぞれの音楽文化でいろいろ異なるでしょう。場合によってはトラック以前の「幻の作品」とかも出てくるかもしれない。そのへんの事例を整理する作業は、音楽文化史・音楽社会学の作業です。どれが作品と呼ばれているかも、その作業で個別に整理されるでしょう。
ただ、増田さんのいう「作品はいっぱいあっていい」というのはちょっと嫌かなぁという印象です。「ひとつの創作行為によって作品がたくさん生まれる」というのはちょっとわれわれの作品概念にそぐわない気がするんですね。「作品の一部を変える」とか「作品を改変する」といった言説をうまく説明できなくなりそうだなーという気もします。このへんは増田説でも上手くいくかもしれないので、もうすこしちゃんと考える必要はありますが。それよりも「評価対象はいろいろあっていい」と言えば十分なんじゃないか、という気がします。*3




長くなりました。いろいろ変な事例が出てくるでしょうから、いろんなケースを考えながら、「トラック」概念の規定のしかたを整備していく必要がありますね、というのが僕の最終的なコメントです。その作業は今後、今井ちゃんが頑張ってくれるでしょう。この概念がもうすこしはっきり規定されれば、評価対象の分類も整備しやすくなると思います。この存在論の整備は、各集団(ビートルズサークルや、オーディオマニアなど)のあいだでどの対象が評価されているのか、を考えるのに役立ちます。こういう細かいこと考えてると、「僕らは哲学者じゃないので」と敬遠・嫌悪されがちなんですが、今井が僕とか美学者がやってる存在論という作業の根底に「他の人達の作業にも役立つように概念整備をしよう」というモチベーションがある、ということは、心の隅に置いておいていただきたいなぁと思うわけです。



森功

2012/12/12追記:重要な論文のリンクをちゃんと貼っといたほうが便利がよさそうですので、あらためてリンク貼っときます(増田さんのブログにも貼ってありますが)。

今井論文
https://docs.google.com/open?id=0B2BZsarxhk7bYmQxbDlJcXZaVTg

吉田論文
https://docs.google.com/file/d/0B1n_R0jRG9oBRmN5UW5SbU1WWVE/edit?pli=1

*1:変に受け取られると嫌なので一応言っときますと、喧嘩売るつもりはありません。議論の進展を望んでいるだけであります。

*2:もしかしたら「意図」じゃなくてもいいかもしれないけど、ノイズ問題とか「あるトラックと、それへのオマージュとして出された同一音構造のトラックが、同時に出される場合」とかのケースを考えると、ちょっとまだ意図必要なんじゃないかという気もします。まぁこのへんちょっとややこしい。

*3:今井の主張も、「作品概念要らない」ではなく、「評価実践を説明する上では、下手に作品概念に訴えない方がいい」という点にあります。ここは、当日ちょっと変なまとめ方をされているような印象をもったのですが、まぁ会場に行ってない人間の印象なので、あまり当てにはなりません。