昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

山形浩生氏の再反論をうけて。

さっそく再反論が来てました。
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20120121
お忙しい中、わざわざありがとうございます。本当に感謝しております。
この議論で世間の皆様がすこしでも美学に関心をもっていただけているようで、こういうマイナーな学問をやっている者としてはありがたい機会であります。



でも相変わらず、山形氏は議論の問題設定を誤解されているようなので、ちゃんと書いておきますね。


1.山形氏の誤解
注意して欲しいのは、ここで議論されているのは
「いきなり目の前に人工物だか自然だかよくわからないものが出されたときに、それをわれわれはどのように判別し、どのように見ることができるのか?」という問題ではありません



本ちゃんと読んだひとはわかると思いますが、
ここで問題になっているのは
「いままで自然樹木が生えていたような場所に、(植物の維持費削減などのために)代わりにそっくりのプラスチックの木を植えることは、倫理的・美的にどのような問題があるのか?」
という点です。


これはたんなる哲学的な仮想実験ではありません。
本ではより詳細に具体事例が説明されていますが、実際に1972年、ロサンゼルス当局が街路樹をプラスチックの木に植え替えようとし、議会や道路委員会を巻き込んだ騒動が起こったのです。
また、おなじく1970年代には、セコイア国立公園にプラスチックの木を植えようという動きもあったようです。
つまり、これはただの思弁的な美学者の机上のお遊びではなく、こうした実践的な問題に哲学的に答える作業なのですね*1



さて、本書の議論は、こうした実際の事例を下敷きにしたものです。
ポイントは、観賞者はすでに目の前にあるものが「人工物」であることを知っている、という点です。
「あまりにそっくりなものを、はたしてわれわれは別のカテゴリーに振り分けて見ることができるのか?」ということは問題になっていないのですよ。


ここを山形氏は完全に誤解している様子*2
だから「あるモノを前にしたとき、それをどのカテゴリーに分類するか、どうしてわかるの?」とかいう考え方に進んでるのでしょうね。
「うんこの味は俺にはわかる!」とか言われても困ります。そういう話してるんじゃないんです。
こういう学術書を読むとき、自分好みの問題設定を勝手にもちだして、恣意的に読んではいけません。著者が何を問題にしていて、なにを主張するために、何を根拠に持ってきているのか、まず、そこを理解しましょう。基本です。こんな激しい誤解してるのに「美学とかいう分野そのものの抱える問題なのかな」とか言われると、マジかんべんしてくださいよ、って思ってしまいますが、どうしましょう。
(ただ、味覚の話を出したのは別の意味でちょっとまずかったかもしれません。これについては注で。*3



先のエントリで述べたことの繰り返しになりますが、
(自然物であれ、人工物であれ)われわれが何かを観賞するとき、われわれは見えるもの(聞こえるもの)だけを材料にしているわけではありません。
観賞経験には、「それが何なのか」についての知識・理解が大きく作用しています。
そこで体験されているものが、「うんこ」か「カレー」か、「自然樹木」か「プラスチックの木」か、「たわしのはいった箱」か「ウォーホルがつくった芸術作品」か、といったことの理解が、観賞経験を決定的に変化させますよ、というのがこの話のポイントなのでした。



2.プラスチックの木の美的な悪さについて
山形氏は「体験として同じではないことはいえても、それが「まちがっていて悪い」とは言えない」と言っています。
これはたしかに、ひとつの反論ではあります。
でも、これについて西村が議論してないわけではありません。
先のエントリでも書きましたが、自然樹木をプラスチックの木に代えると、「悠久」とか「生気がみなぎっている」とかいった美的性質が失われるのですね。
山形氏が引用している箇所のすぐ後の段落ではこう言われています。

「われわれはプラスチックの木の葉の色を「緑」と名指し、庭の木の葉の色も「緑」と呼ぶ。だが自然の葉は、非美的で物理的なレベルでまさに自然の複雑な有機的プロセスの内部から生み出された所産としての「葉〈である〉もの」がもつ「生気と水脈をもつ緑」を見せ、美的に「しっとりとみずみずしい」が、プラスチックの葉は、それが自然の葉の緑と同じ波長をもち見た目に区別はつかないとしても、それが見せるのは人口の「顔料〈である〉もの」の「生気なく乾燥した緑:という非美的な特徴に依存した「まるでみずみずしく見える」という美的な質以上ではない。」(pp.172-3)

プラスチックの木に取り替えると、自然物特有の美的質のいくつかが失われてしまう、というのがここでのポイントです。
だから「間違っているし、わるい」という表現がなされるわけです。
これは決して「自然じゃなくなるから悪い」という単純な主張ではありません。山形氏はどうしてもトートロジーに持っていこうとしてますが。
われわれが評価している重要な質のいくつかが、失われるから「悪い」のです。



ただ、もちろんプラスチックの木に、こうした弱点を補うほどの利点があるかもしれません。それも美的な利点が。
そこのペイオフについては、もしかしたら議論の余地ありかもしれません。
興味がある人は、頑張ってください。




3.プラスチックの木を美的に見ることの倫理性について
おまけ。
ヽ(`Д´)ノ「もう「自然」とかいう考え捨てちまえよ!そっくりなもの作れるんなら、それを美的に楽しめばいいだろ!」
こういう意見がでてくると、
人工樹木を美的に見ることそのことは、倫理的に許されることなのか?という話になってきます。
西村の立場は、「最終的にはそれは文化依存的であるが、現代のわれわれからすれば、ロサンゼルス当局のプラスチックの木を美的に楽しませようとするやりかたは、やはり倫理的に問題がある」というものだと思います。
まぁ原子レベルで自然物を複製できるような「スーパーゼロックスマシーン」ができた未来の社会ではどうなるかわかりません。
ただ、現時点でのわれわれとしては、やはり容認しがたい、というのが西村の立場です。
なぜなら、自然樹木を人工物に置き換え美的に楽しむことを許すことは、プラスチックの木が表現しているような「浪費や無視や断念といった質をもたらした価値観や態度を「実際に是認するわけではないとしても、すくなくとも大目に見ることを要求する」」(p.208)からです。
このへんの議論は、本書第五章五節「環境倫理と美学」を御覧ください。



はい。うまく宣伝にもなりました。
amazonの在庫見るかぎり、本自体はぜんぜん売れてないけど。




最後にいちおう言っときますが、わたしわざわざ「弟子筋」だから反論してるわけではないですからね。
間違ったおかしな評判がひろまるを止めるのは、学者として当然のお仕事です。
あと弟子であるわたしであるからこそ言えますが、ここ一二年のあいだに西村に一番反論してるのは、わたしである自信があります。



では。
森功


2012/01/224時09分追記

なんかまた再反論きたと思ったら、また甚だしく変な方向に誤読している。
わたし「具体的事例から出発してる」って言ってるだけで、議論そのものは一般論だっつーの。


「いままで自然樹木が生えていたような場所に、(植物の維持費削減などのために)代わりにそっくりのプラスチックの木を植えることは、倫理的・美的にどのような問題があるのか?」
って俺書いてるよ。
これぜんぜん個別例じゃなくて、一般的な話じゃん。


たしかに「悠久」は僕が「渓谷の岩」について言われている性質を引っ張って来たので、街路樹に当てはまらないかもしれないけども、街路樹に「生気がある」って言えないというのは、ちょっと無理筋。
個別例を一般化してはいけません。
そして、そもそも議論のポイントは「自然物にあてはまる価値性質が、人工物にあてはまらなくなる」ってところでしょ。
何度も言ってるじゃない。
山形さん、もうここまで来ると、ただ文句付けたいだけにしか見えないんですが。
議論を前進させようって気はないのでしょうか*4



しかも
「美的に悪い」を「許し難い邪悪な行為」に読み替えたり、ひどい。
ある点で「悪い」からといって「許され難く邪悪」になるとは限らないし、「いくつか事例がある」「文句も言わず行われている」からといって「悪くない」ということにもなりませんよ。
あと、繰り返しますが、ここでやってるのは一般論なので、実際に検証しなければ議論できない問題でもないです(まさか山形氏でも「アンケートとって検証しなければ哲学しちゃダメ」とか言わんでしょう)。
もちろん検証したらもっと面白い話になるとおもいますが、それはまた別の話。



まぁもう山形さん飽きたから終わるっぽい。残念だな。
忙しい人にここまでつきあってもらっただけでも、お礼を言います。
楽しかったですよ。
これを機に、美学という学問に興味が出た人もいるようですし。良かったんじゃないでしょうか。
私としても、いい議論の勉強になりました。

*1:このように書きましたが、わたしは、メタな視点から考えようとする形而上学者の姿勢は、非常に意義のあるものだと考えていますよ。たまには形而上学的な視点にたつことも重要です。

*2:だから先のエントリで「ちゃんと読めてるの?」と書いたのですが。

*3:なぜまずいかというと、視覚的な美的体験と味覚体験を厳密に区別しようとする人はいるからです。「美的経験とは無関心的(disinterested)なものだ」という考えをつよく捉える人のなかには、食事の快を美的経験として認めない人もいます。僕自身は、「味覚経験も美的経験の一種になりうる」と考えていますが、これは必ずしもコンセンサスがとれている考え方ではないのです。なので、味覚で考えたくない人は「デパートのショーケース内に入ってる財布」と「恋人からもらった同モデルの財布」の区別で考えてください。ポイントは「物理的にほぼまったく同一で外見的には判別不可能だけども、別の認識カテゴリーに置かれる2つのもの」という点です。恋人に財布あげたのに「あー、あれ弟にあげた。でも同じの買ってきて使ってるよ」って言われたら、「ちょっと待て」ってなるでしょ。 「財布は美的経験の対象じゃないんじゃないか」という指摘を受けました。「便器」と「デュシャンの《泉》」にしましょうか。もっと面白い例ないかなー?「本物」と「見た目では判別不可能な贋作」でもいいかも。

*4:めんどくさいなら、わざわざ喧嘩売るような芸風やめりゃいいのに。