昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

美学会全国大会@東北大学の津上講演を巡る議論について一言

第62回美学会全国大会@東北大学、発表してきました。
みなさま、お疲れ様でした。3日間いろんなひとといろいろ議論できて楽しかったです。


今日のブログはちょっと長いです。

最終日に「たそがれフォーラム」という名目で三人の先生(津上英輔、小田部胤久、岡田温司)が発表されたのですが、
そのうち津上先生の講演について、変な発言がツイッター上で飛び交っていたので、ちょっと一言言っとかなきゃな、と思って。
あらかじめ言っておきますと、以下は津上擁護のための文章です。



まず講演について説明しておきます。


津上先生がひとつ写真をあげました。
津波で家などがほとんどすべて押し流された後に、残っていたコンクリートのアパートの写真」
です。
閖上地区のアパートの写真でした。
晴れ渡った空のした、他の家や車などが皆なくなって、アパートだけがぽつんと建っていたわけです。
(ネットから似たような画像をちょっと探してみましたが、ありませんでした。まぁだいたいこんな風景の真ん中に、鉄筋アパートが建っている写真です。空はもっと晴れ渡っていましたが。)



津上先生はこの地区を訪れ、そのときの経験についていろいろと語っていました。
「無の経験」だとか「あるべきものがなにもなく」とか、いろんな言葉を使いながら。
そのなかで「どこかすがすがしい感覚」という言葉を使ったのでした。


で、それについて後日こんな議論が。

全体主義的傾向に抗う、という意図はわかるのですが、津波被害にあい、全て押し流された光景を前に「すがすがしい」と言いはなつ、しかも被害にあわれた方がたの渦中で、というのが、何ともおさまりがつかない気持ちなのでした。美学会シンポから一日明けて。
Oct 18 via Mobile WebFavoriteRetweetReply

確かに聴くにたえなかった。あの風景は惨殺屍体のようなもので美的経験の対象にはなりません。それを頑なに「美的経験だ」と言い張るのは心理的防衛だが、幼稚で脆い防衛です。 RT @akikokasuya: 津波被害にあい、全て押し流された光景を前に「すがすがしい」と言いはなつ、
Oct 18 via EchofonFavoriteRetweetReply


ここに挙げたのは、一部の発言ですが、まぁ講演を聞いた先生方がほかにもいろいろとつぶやいておられたのですね。
どうやら「すがすがしい」という言葉を使ったのがマズかったらしい……。


とはいえここで津上先生をひとつ擁護しておくと、講演を通じて、津上先生の真摯な姿勢はつねに前面に現れていて、「すがすがしい」という言葉の使い方には、「この風景を美しいと観ることもできますねー」といったニュアンスはまったくありませんでした。
津上先生は講演を通じて「感性的経験」という語を使ってましたが、べつにこれに特に「美しさをそこに見て取る経験」とか「快適な経験」といった意味合いは強く込められていなかったように思います*1


まぁたしかに、「すがすがしい」とか「この建物がなくなってすこし寂しかった」という表現は、少しまずかったのかもしれません。(ひとによってはそこに「喜び」を強く読み込むかもしれない、という意味で。)
こんなことも言われてますし。

akikokasuyaAkiko Kasuya
yukoimYuko Murakami
in reply to @yukoim

@yukoim やっぱりそうですよね。もっと他の形容詞はなかったのか、ある強い感情に見舞われたとか、そういうことかと思うんですが。被災地の中で、そこだけ残った鉄筋コンクリートの建物を見て、強く心を動かされた、ということだったかと(今回再訪したらその建物も撤去され、寂しいって・・)
Oct 18 via webFavoriteRetweetReply

とはいえ、くりかえし注意しますが、津上先生はそうした言葉を使うときにもそのつど慎重にフォローを入れていて、決して震災風景を不謹慎なしかたで美的に語っていたわけではありません(←ここ重要)。




でも、これだけなら大した騒動ではないんです。
批判者も発言の趣旨を踏まえずに言葉じり捉えて文句言ってるだけだし、講演者側が「すいませんもうすこし、言葉に気をつけます」と言えばいいだけの話なので。
(そもそも震災の風景を語ることは、講演のメインテーマではないのです。)




ただ、ここから先がすこしまずい。
というのも、批判している人たちは、講演全体の趣旨を誤解されているようなので。

akikokasuyaAkiko Kasuya
damewoizuhara tsukasa
in reply to @damewo

@damewo 「共感に立ちながらなお自由である感性,それを模索する」ために「被災の光景の感性的判断について議論」というか一方的に述べられたのですが、それって・・みたいな気持ちになったのでした。
Oct 18 via webFavoriteRetweetReply

とか。

akikokasuyaAkiko Kasuya
yukoimYuko Murakami
in reply to @yukoim

@yukoim 美学の可能性と射程を探る、というような全体の趣旨のシンポで報告者のお一人が共同体を問題にされ、今回のような大きな不幸を前に、共感を強いられれば自由を失うことにつながる・・といったことから、美学(感性論)からどういったアプローチが可能か、を実践してくださったのです
Oct 18 via webFavoriteRetweetReply

とか。



あの講演をこのようにまとめるのは、問題があります。
そもそも誤解であるうえ、重要な部分を伝えそこねているからです。



あの講演は、

  • 震災後、現代の美学者たちは何が出来るのか、という問いから始まり、
  • 日本全国・世界からの寄付活動や、自分の被災地訪問体験を慎重に語った上で、
  • そこでどういう「共感」が行われているのかを、共感の概念史を踏まえつつ、解明し、
  • 最後に「いま美学者たちができるのは、震災後に起こっている感性的な議論を、理論的に整理することだ」と主張する。

という内容でした。
(これは、現代における哲学者の重要な仕事は「概念整備」や「論証の吟味」だ、といった話と似ています。)



いい話です。




それなのに、誤解を生みそうなツイートが蔓延しているので、以下、すこし注意しておきたいと思います。


「震災を感性的な言葉で表現してみる」とか、「震災風景に美を見出す」とか、そういったことはこの講演の趣旨では決してありません。
上で言われている「美学的なアプローチを探る」というまとめはすこし曖昧で、精確には、「美学者がいま出来る作業のひとつを提示した講演」と言うべきでしょう。
そしてそれは「震災を美的に語ること」とは程遠いものです。
むしろ、津上先生がこの講演で主張している「美学者の仕事」とは、「震災についての語り」に参加しなくてもできる作業です。
概念整備、議論の土台確認、各人の主張の明確化、などの作業は、自分自身が震災を語らずともできる仕事なのです*2



現代の美学者は「感性的な議論がなされている場を理論的に整備」せねばならないし、
それによって、震災後の社会に貢献できるという、津上先生のメッセージは非常に重要だと私は思います*3
これは抽象的なお話ではまったくなく、美学者たちの知見とこれまで培ってきた能力を震災後の現代において活かすための、具体的提言です。
それも、われわれ学者のできることを謙虚に認識した、意味ある提言だと私は思いました。




この津上先生のメッセージをどう受け止めるかは、今後あの講演を聞いたわれわれの間で、議論すべきでしょう。
ただすくなくとも、あの講演を「美学者が震災を美的に語ろうとして失敗した」講演として理解するのは、間違いだし、そういう誤解であのメッセージをスルーするのは、あまりにももったいない話です。



2011/10/18
森 功次




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*1:今回の騒動は、この津上先生の語る感性的経験をカント的な美的経験として理解し、「美的経験→快→喜び」といった連想ゲームで解釈しちゃった人たちが、拒否反応を示しているだけのようにも思えますが、まぁその辺の専門的な話は、今回はおいておきます。ただ現代の美学において、感性的経験の解釈はひとによってさまざまで、論者によってはそこに必ずしも快や喜びを含意させるわけではない、という点は注意しておきます。

*2:もちろん実際には、その議論の中に巻き込まれがちではありますが、「議論へ自分が参加すること」と「行われている議論を整理・整備すること」との区別は、今回の講演においては重要です

*3:そして、こういう仕事をするうえでは、「わたしこんなふうに考えてみたんですけど、この考え方おもしろいでしょ」という「お話」は、あまり有効ではありません。まぁ「思考を活性化させる」のも哲学のひとつの仕事かもしれませんが、その「哲学」は今回求められたような概念整備の作業にはあまり有効ではないのです