昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

 環境美学について

conchucame2007-05-24


先日「現代美学を大いに盛り上げる会(仮)」という勉強会で「環境美学Environmental Aesthetics」について、発表しました。
(この勉強会、名前はかなーり胡散臭いですけど、やってることはそれなりに真面目で、スタンフォード大が出してるネット上の哲学辞書を読みつつ、それについて議論するというものです。「もうちょい現代の美学勉強しようぜ」というのが趣旨。)
発表といっても、スタンフォード大の辞書の「環境美学(http://plato.stanford.edu/archives/spr2007/entries/environmental-aesthetics/)」の項をまとめただけなんだけども、なかなか有意義だったので、アップしておきます。


注:以下、長いです。しかもあまり校正してません。多少読みにくいのは僕の責任です。
誤読の可能性もあるので、詳しく知りたい人があれば、本文を参照してください。
誤訳、誤読があったら指摘していただけると勉強になります。


以下、レジュメ。




現代美学を大いに盛り上げる会 第4回    2007/05/22 Tue  発表:東大美学M3森功
Environmental Aesthetics  by Allen Carlson
http://plato.stanford.edu/archives/spr2007/entries/environmental-aesthetics/


序 
環境美学は哲学的美学の比較的新しい下位領域
20世紀後半あたりから盛んになってきた
分析美学の隆盛に対して、自然環境に対する美的評価を精査しようという動きがきっかけ。
その射程は単なる自然環境についての考察に留まらず、日常経験に対する感性学まで広がりつつある。



1 歴史


環境美学の歴史は18、19世紀の美学まで遡る。
自然についての美学 the aesthetics of nature
キーワードは「無関心性disinterestedness」、「ピクチャレスクpicturesque」


1.1 自然についての18世紀美学


「18世紀を通じて、近代美学の設立者たちは、芸術よりもむしろ自然を美的経験の範例的経験として捉え、また、そのような経験の指標として無関心の概念を発展させた。」
・主な論者とその考え
第三代シャフツベリ伯爵・・・美学という観念を特徴付ける一つの方法として
ハチスン・・・個人的、実用的関心や、より一般的な自然の連関を美的経験から除外
アリソン・・・特別な精神状態を指し示すために
カント『判断力批判』においても、「自然」は美的経験の模範的対象とされている。
カントは自然美は芸術の美よりも優れていると主張、またその精神状態への効用も認める。
「無関心概念の発達と、自然を美的評価のひとつの理想的対象として受け取ることとが密接な関係を持っていたのは偶然ではない。美的なるものの概念を無関心性の観点から明らかにすることは、自然の美的鑑賞から、鑑賞者の個人的、宗教的、経済的、実用的関心といった美的経験の邪魔となりうるものらを切り離した。」


無関心性の理論は自然を理解するための、三つの美的な次元をもたらした。
1.美しいbeautiful  ex)管理され、栽培されたヨーロッパ庭園。風景。
2.崇高sublime  
恐ろしい自然、山、荒地などは、無関心性と共に観ることによって、単なる恐怖・嫌悪の対象ではなく、崇高経験の対象となる。 
崇高概念を発達させたのはバーク、カント
3.ピクチャレスク picturesque 
 John Conronによる位置づけ・・・「18世紀に於いては、「美」の対象が、より区分され「繊細」になったのに対して、「崇高」概念は広大に、幅広く、「際限なく」なっていった。「ピクチャレスク」はその二つの中間に位置し、複雑かつエキセントリックで、変化に富みつつ、かつイレギュラーであり、豊かで、力強く、エネルギーに満ちていた。」


自然に対する美的経験に関して、これら三つの概念の中で「ピクチャレスク」が最も隆盛を得たのは驚くべきことではない。
「ピクチャレスク」概念は、「自然を美的に鑑賞すること」と「芸術における自然の扱い」との結びつきを強化した。
ピクチャレスク概念が主張するのは、主題や風景の構成などの点で、自然をあたかも芸術であるかのごとく鑑賞すること。
無関心性などの概念もピクチャレスク概念を形成するのに一役果たしている。
ピクチャレスクという考え方は、「自然の作品」と呼ばれるものから構成されていた初期自然界概念と関係している。
その「自然の作品」とは、美的経験の重要な対象として考えられていたものであるが、藝術作品に類似しているときに、より良いものであると考えられていた。
また、この概念は芸術を自然を映し出すものとして捉える芸術の伝統とも共鳴するものでもある。
18世紀には、ピクチャレスク概念はWilliam Gilpin、Uvedale Price、Richaed Payne Knightらの著作で有名に。
同時にピクチャレスク概念は、イギリスの湖水地方スコットランド高地地方、アルプスを旅行する者たちに、美的理想を与えた。



1.2 自然についての19世紀美学


自然観賞におけるピクチャレスク概念の影響は19、20世紀になっても続く。
例えば旅行、パンフレット、カレンダー、ポストカード
しかし自然美学についての哲学的研究はしだいに下降。
崇高や無関心性、そして芸術よりも自然を中心的に見る考え方などはカントにおいて絶頂を極めたが、その後は発展しなかった。
カント以降、新しい秩序をもたらしたのはヘーゲル
ヘーゲル哲学に於いては、芸術が「絶対精神」の最高の表現
自然美の研究はなされなくなる。
19世紀に自然美学を行ったのは、少数の哲学者と、散発的なロマン主義運動の思想家だけ。


しかし、ヨーロッパでの自然美学の衰退に対して、北アメリカでは新たな発展があった。
自然賛美のルーツはアメリカの自然小説の伝統にあった。Henry David Thoreau
とりわけ芸術的顕現においては、はじめはピクチャレスクの思想に影響を受けていた。

※参照
Thomas Cole

Frederick Edwin Church


しかし、自然小説が表現の支配的形式になるに従い、自然科学の発達によって自然美学の概念は発展していった。
George Perkins Marshの地理学・・・人間が自然美の破壊の原因となると主張
John Muir・・・ナチュラリスト、「国立公園の父」
自然環境、とりわけ野生の自然全体を美学的に美しいとし、人間の侵略を受けている場所は醜いとする。
当時は恐ろしいものと考えられていた蛇やワニ、そして洪水や地震をも評価の対象とする
  ・・・・positive aesthetics
自然環境に残った人間の跡を良しとしないという点で、この美学はピクチャレスク美学とは異なる。なぜならピクチャレスクという考え方においては、自然界における人間の存在のしるしを良しとするから。



2. 20世紀における発展


20世紀中ごろは、芸術哲学における分析美学のほとんど排他的ともいえる集中によって、自然界についての美学は最低の状態にあった。自然の美的観賞は芸術鑑賞に寄生的であるという考えや、自然観賞はまったく美的なものではないという考えも出された。
しかし、20世紀後期には、自然美の放置に対する反応も出てくる。それは近年の環境美学の発展へと繋がっていく。


2.1 自然美学の無視、放置


20世紀前半は哲学は自然美学をほとんど無視していた。
しかし例外もある。
アメリカ・・・George Santayana、John Dewey、Curt Ducasse
イギリス・・・R.G.Collingwood
しかし、幾人かの例外を除いては、誰も自然美学を真剣には考察しなかった。自然美学はあくまで芸術哲学に支配されていた。哲学的美学=芸術哲学の時代。


芸術的関心による美学の支配には二つの流れがあった
1.美的判断=デザインする知性の成果として鑑賞対象を見ること、と考える立場。
→自然はデザインする知性の産物ではないので、自然観賞は美的ではない。
昔、自然を美的なものと見ていたのは、自然を創造者の造物と見ていたから。
2.自然界を一種藝術作品のように見る立場
例)風景を風景画のように見る。
この立場は最近でも受け継がれている。


しかし、1,2どちらの立場に対しても、反直観的counterintuitiveであるという反論がなされる。
1に関して言えば、
多くの美的経験の根本的な範例は、自然観賞の例であるように思われる。
さらに、西洋美学の伝統は、自然観賞を非美的とする概念に明らかに矛盾する考え方を昔から主張してきた。例えば、Ziffの「見られるものは全て美的に見られうる」という考え方。
2に関して言えば
自然を芸術を基にして鑑賞しようとする立場は、正しい自然観賞ではなく、むしろ自然環境の真なる特徴をゆがめるものである。
さらに芸術的側面に注目しすぎることは、自然に対する多くの普通の理解、経験を台無しにしてしまう。
問題は自然観賞の重要性を認めなかったという点にある。
しかし、自然環境、人間環境の保護・保存を考えるために、現代の環境哲学者や環境主義者らが環境美学をより真剣に見つめはじめるまでは、芸術主導の鑑賞――例えばピクチャレスクの考え方――に対する多くの非難が頂点に達することはなかった。


2.2 環境美学の出現


20世紀の後期に自然美学に対する関心が復活する。
その理由として幾つかの契機があった。
・環境の悪化に対する反応。
学問の分野にいる人々が、環境運動の重要性に気づき始めた。理論の側でも実践の側でも。
環境倫理についての哲学的研究の出現。
初期の環境美学の幾つかの仕事は、環境の美的状態についての一般的理解に対する反応によって導かれる経験的調査に集中した。
初期の論者たちは形式的な側面から環境問題に口を出したが、表現的、美的な側面を見逃していた。
経験的なアプローチはピクチャレスクの考え方に過度に影響されており、「風景的な美しさ」という考えにとりつかれていた。
これらの問題は、理論的枠組みが不十分であったことに起因する。
そこから環境に対する美的評価を基礎付ける作業がはじまる。
「展望―隠れ場所理論prospect-refuge theory」
・・・狩猟時代の本能的記憶が,守られた場所(隠れ場所refuge)から周囲をよく見渡すことができる(展望prospect)環境を好むという人間の好みを形成したという理論
発達心理学」「環境心理学」などの影響も。


哲学的美学の中でも、自然美に対する再評価が始まる。
Ronald Hepburn “Contemporary Aesthetics and the Neglect of Natinal Beauty”
アートワールドを越えての世界の美的経験の重要性を説く
自然美の見直しだけではなく、日常生活の美的経験のための環境美学の基礎となる。



3 環境美学の現在の位置づけ


幾つかの区分の仕方
  認知的―非認知的
  概念的―非概念的
  物語―環境的・交感的ambient


3.1 認知的見解


認知的、概念的、物語的
・・・観賞対象である自然についての知識・情報が重要であると考える
 ピクチャレスクのような考え方は拒否
しかし、「芸術鑑賞は、自然観賞の中で要求されるもののいくつかを教えてくれる」ということは認める。
芸術鑑賞に知識が必要なように、自然観賞に於いても地理学、生物学、生態学などの知識は重要。
それは自然科学によって特徴付けられるやり方で、自然観賞をするということ。


他の認知的、準認知的な考え方は科学的認知主義とは異なる。
一方では、様々な知識や情報があることを強調しつつ、文化的、歴史的な自然観賞がありうるとする。
よって物語、伝承、神話などが、科学的知識と相補的、代替的になりうるとされる。
他方、別の準認知的な考えにおいては、自然が「自然として」観賞されるべきだとは考えるものの、芸術の歴史や批評に関する知識が芸術の美的な質を開示するのと同じように、自然についての知識も自然の実際の美的な質を開示するとは考えない。
さらに、自然の対象や環境の美的な次元の多くは極端に観察の条件と相対的であると主張。
結果、自然の鑑賞は、芸術鑑賞に於いては許されないほどの、自由の幅を許可されることになる。



3.2 非認知的見解


「非認知的」とは単に「情感的・情動的」という意味ではない。
科学的知識や文化的伝統のような認知的内容以外のものが、環境の美的観賞の中心にあるとする立場。
1.Aesthetics of engagement(関わりの美学?) Berleant
自然だけではなく芸術についても、観賞についての伝統的な考え方の多くを否定する。
無関心性の基にある孤立化、距離化、対象化などの考え方は誤謬、とりわけ自然環境の経験に於いては。なぜならそのような考え方は、自然の対象物や鑑賞者を誤って抽象化してしまうから。
よって、Aesthetics of engagementは自然の関連的(文脈的)次元や、それについての多元感覚的な経験を重視する。
場所、有機体、知覚らの統一として環境を見る。主体・客体の二項対立への挑戦。
          (→現象学に近い?)
それは鑑賞者に、自然環境に自らを没頭させるようにし、自己と環境世界との距離をできるだけ少なくさせようとする。
全体的没頭the total immersion


2.arousal model (喚起モデル?) Carroll
 ・・・我々は自己を自然に対して開くことによって、また、自然によって情動的に興奮させられることによって、自然を鑑賞することができるという考え方。
この考え方によると、自然に対する知識を減らすほど、正当な自然観賞が成立することになる。


3.mystery model Godlovitch
知識は実際の正しい自然観賞を簡易化してしまうという立場。
なぜならそもそも自然それ自体が本質的に、未知であり、隔たったものであり、不可知なものであるから。
この立場においては、自然は我々と切り離されており、我々は自然には属していないものとされる。


4.想像力を中心において、engagementと無関心性とをつなごうとする立場。Brady、Hepburn
想像を様々な種類に分類――連想的、比喩的、探求的、投企的、拡充的、開示的
想像力が主観性をもたらすという考えに対する反応。
これに似たものとして、想像の形而上学的次元に注目する理論もある。
それによれば、想像は自然を形而上学的洞察の開示として解釈する。
よってこの立場は、自然の正しい美的経験の中に、自然への遭遇がしばしば生み出す究極の現実についての抽象的な観想や熟慮を含める。



4. 環境美学における最近の発達


昨今、環境美学の範疇は、日常生活の美的な調査にまで広がっている。
同時に、環境美学と環境主義の関係が精査され、自然美学の初期の仕事が批判的されるようになる。


4.1 人間の環境と日常生活の美学


認知主義、非認知主義と日常生活の美学との関係
1.認知主義は、日常環境の美的享受も知識に依存すると考える。歴史、機能、役割。
(その文脈で、)文化的伝統の果たす意味が強調される。
Sensse of place(土地の感覚?)
伝承、神話、宗教。
2.非認知主義の「関わりengagement」の見解は、日常の全てのものに適用される。
小さな町、大きな都市、テーマパーク、美術館の美的側面
そして人間関係の美的側面
想像の役割を強調する見解は、環境開発から、匂い、味まで、全てのものに対する美的な反応を理解するのを助けてくれる。


さらに研究の対象は、風景や場所から、日常生活の経験そのものまで広がっている。
街、都市、庭、家からスポーツ、料理まで。
日常生活の美学は、一回りして、古典的な「感性学aesthetics」へと戻り始めている。  
この点に於いて、環境美学は、芸術形式の境界と接続される。
しかしまた、日常生活における美的に重要な次元という観点から、そして環境の美的享受を形作る役割という観点から、古典的芸術の見直しも始まっている。



4.2 環境美学と環境主義

※参考(wikipedia環境倫理学」より)
環境倫理学の三つの基本主張  
1 地球有限主義……有限な地球環境を守ることが他の目的よりも優先する  
2 世代倫理論………現在世代は、未来世代の生存可能性に対して責任がある   
3 自然の生存権……人間だけでなく、自然も生存の権利をもつ

環境主義と環境美学の関係の始まりは、18、19世紀の自然美学にある。
よって、19世紀、20世紀初頭には、環境に対する考え方は、ピクチャレスクに影響されたツーリズムによって助長されていた。
さらにJohn Muirの国立公園設置運動などの影響。
しかし、現在の環境美学と環境主義の関係は昔と同様ではない。
湿地帯など、風景美の概念にはそぐわない場所の保護の問題。
ピクチャレスクの概念は様々な批判を受ける。
人類中心主義的、風景に取りつかれている、主観的などなど。
無関心性に対するengagemaent理論からの批判と同様、無関心性の議論は環境主義の立場からも問題だとされる。


無関心性という概念は必要であるとする主張する人もいる。(Carlson、Budd)
なぜなら無関心性という概念が無くなると、美的という考え方それ自体が概念的土台を失ってしまうから。
さらに、無関心性概念の精査からは、古典的美学の人類中心的、主観的という側面が批判される。
このような批判の元にあるのは、「非中心的acentric」な立場を取る神秘主義
同様に、自然美の享受は人類中心主義的でなければならないという立場に対しては、非認知主義も反論に用いられる。
認知主義的な考え方もまた、人類中心主義という批判に対して、答えを供給する。
「環境の美的享受は主観的でささいなものであるので、環境保護という点に於いては、ほとんど重要性を持たないのではないか」という心配を上手く処理することに、科学的認知主義は役立つ。
エコ美学・・・環境の美的享受を環境保護のための責任の文脈に置く。
これは「伝統的な美的享受の考え方は、道徳的には空虚なものでしかない」という非難に対しての反駁にもなる。


ピクチャレスクの考え方とはちがって、自然の美的享受と「積極美学positive aesthetics」を結びつける歴史的伝統は、環境哲学者たちからは採用されてきた。
自然界を、秩序、バランス、統一、調和などの美的質をもったものとして解釈するという科学的世界観は、環境の美的享受と科学的知識を結び付けようとすることへとつながる。
積極的美学が科学的認知主義を助けるならば、その間にある多少の食い違いは単純に受け入れるべきだとする意見も。
しかし、幾人かの論者は積極的美学は問題含みであると言う見解を取る。
なぜなら環境設計や環境保護に必要な比較調査の可能性を阻害してしまうから。
環境保護のための最も有意義な見解は、単純に何かの美的享受のモデルに乗っかることではなく、むしろ幾つかの異なる立場を構築的に組み合わせようというもの。
想像力ベースの見解や、「関わりの美学aesthetics of engagement」のように、認知的立場と非認知的立場を結び付けようとする努力が進んでいる。








発表レジュメは以上。


感想としては、
細かい点で言えば、リンネに始まる植物科学の発展をもう少し考察に入れて欲しかったという点がちょっと不満。
19世紀のヨーロッパでは環境美学の発展は「自然観」という点では発展が無かったかもしれないが、社会科学の発展は環境美学に影響を与えなかったのか?という疑問もあります。キルケゴールニーチェに始まる実存主義と自然観との関係も気になる。


いずれにせよ、「環境美学」という領域は広すぎて、ちょっと議論が錯綜しているんじゃないかという感想を持ちました。
「環境美学」というタームで括ってはいるものの、その「環境」の意味がもはや初期の環境美学における「自然」だけにとどまらなくなった時点で、議論を分けるべきだ。
少なくとも、考察の視点がどのレベルなのか(自分?人類?地球?)という点で整理が必要。


自分の研究とつなげて考えると、自己と環境との関係を考えるという点では、現象学の「世界」の議論に通じるものがあるなとも思いました。
この分野の持つ「aestheticな感覚を、対象との関係でなく、環境との関係で考察する」という方向性には、両手を挙げて賛成です。


しかし、残念なことに、日本ではこの「環境美学」の研究はまだまだ未開発な部分が多く、邦訳で参照できる文献はほとんどありません。
インスタレーション芸術などをこの「環境美学」の視点から考察しようとする動きは日本でもちょっと前に流行ったのですが、まだまだ未開拓地は残りまくってます。
研究会で満場一致で出た結論は、「つーか日本人誰かやれよ」というものでした。
この分野に興味を持っても参照すべき日本語文献がほとんど無いのは非常に残念なことです。
(Saito Yurikoさんという日本人の方がこの分野では結構大御所っぽいけど、日本語では本出してないっぽい。うーん残念。)
このレジュメをアップするのも、そういった点で少しは意義があるかなと思ったからです。


ちょうど今年、僕の指導教授の西村先生が環境美学で科研費とったらしいので、その成果に期待しませう。
報告書が4年後に出る予定。
4年後といわずに、シンポジウムとかやってくんねーかなー。
今度、せっついてみよう。