昆虫亀

森功次(もりのりひで)の日記&業務報告です。

 最近の勉強・誤読と転用について


わたくし修論では初期サルトルを研究してるわけですが、
最近思ったことを少々。


サルトル初期は、「サルトルハイデガーフッサールを如何に乗り越えたか」って見方で見ないと、わかんない部分が多い。
当たり前っちゃ当たり前の観点なんだが、最近の勉強で改めて痛感している。
フッサール哲学に染まりきってた時期(1930年代後半)を、ハイデガーを援用して乗り越えようとしたときに、どこに不具合が起きるか、どうやって不具合を落ち着けたか、そういった観点で読むのが大切。
つーか、そうしないと見えてこない部分多すぎ。
その意味で俺の卒論は平面的な読み方しかできてなかったな。未熟だ。
先行哲学についてサルトルが誤読してた部分については、最近は「サルトル的転用」って出るくらいに積極的に解釈されてきてるのだが、そういったドイツ-フランス間の哲学関係は、いつも誤読と転用が多くの新しい成果を生んでいて、すごいダイナミックなのだ。
「○○は△△を誤読している」って指摘は、決して無意味ではないが、そこからむしろ「なぜそのように誤読・転用したか?」を見ないと面白くない。
そこに思想のダイナミズムがあるのですよ。
(つーか隣同士の国で、こんだけダイナミックなんだから、日本は外国思想の流入について、もう少し受容と転用の側面から考えなあかんよ。)


まぁ、その辺きっちり考えようとするとフッサールハイデガーも読み込む必要が出てくるわけで、、、大変だー。
最近は、フッサールきっちり読みたいって気持ちがムラムラ。
とりあえず、修論直前に『イデーン』買ってもーた。
積読




結論:やっぱ、哲学おもろい。
あ、里崎がホームラン打った。